2024年8月18日礼拝説教「必要をご存じの神に祈る」

聖書箇所:マタイによる福音書6章5~8節

必要をご存じの神に祈る

 

 今日の箇所では祈りについて教えられています。わたしたちは、普段何気なくしている祈りをも、学ぶ必要があります。今日の箇所で主イエスは、まさにわたしたちちに祈りの方法を教えてくださっています。さらに次の9節からは、祈りの指針として「主の祈り」が弟子たちに教えられていきます。神に祈る姿勢を学ぶ言葉として、そしてこの主の祈りを祈るわたし自身を整える言葉として、今日の御言葉に聞いてまいりましょう。

 今日の箇所の冒頭で主イエスは「祈るときにも」と語っておられます。つまり前回取り上げられました善行や施しと同様の教えを、祈りにおいても伝えようとされています。ここでも前回と同様に、悪い例として偽善者たちが取り上げられます。偽善者とは不真面目な人々のことを指す言葉ではなく、ファリサイ派や律法学者を指す言葉です。この人々は、熱心に祈る人々です。しかし彼らが祈る目的は、「人に見てもらうこと」でした。自らの信仰的な姿をアピールし、人々からの栄光を得るために彼らは祈っていました。それをふまえつつ主イエスは弟子たちに、隠れたところにおられるあなたの父に祈るように命じられます(6節)。なぜなら天の父は、隠れたところを見ておられるからです。わざわざ人目につく場所を好んで祈られる祈りは、そもそも神に対しての祈りではなく、人からの栄光を求める祈りです。祈るときには、神に対して祈ることが大切です。当たり前のことだと思われるかもしれません。しかし、わたしたちのなしている祈りが本当に神に向けての祈りとなっているかは、常に問い続ける必要があります。

 さて7節からは、少々違った側面から祈りについてもう一つのことが教えられていきます。ここでも主イエスは、異邦人の祈りという悪い例を挙げて教えておられます。この7節とつながりのある御言葉として挙げられている聖書箇所が、列王記上18章においてエリヤがバアルの預言者たちと対決した場面です。この箇所で預言者エリヤと対決したバアルの預言者たちは、朝から昼までバアルに祈り続けました。彼らは大声を張り上げ、非常に熱心に祈りました。最後には剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至りました。このバアルの預言者たちの祈る姿が、異邦人たちの祈り、すなわち言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる人々の祈りの問題点を示しています。なぜバアルの預言者たちは長い時間をかけ、自らを傷つけてまで祈ったのでしょうか。自分の言葉や願いを、自らの神に聞かせるためです。もちろん祈りそのものは、神との対話です。しかしわたしたちの祈りはしばしば、自らの言葉を神に聞かせる、という側面ばかりが前面に出てしまうのです。わたしたちが誰か親しい人に自分のお願いを聞いてもらいたいとき、まずお願いしたい相手に親切にするのではないでしょうか。そしてこれだけあなたのためにしてあげたのだから、今度はわたしのお願いを聞いてください、と言うわけです。これと同じことを神に対して行っているのが、異邦人の祈りであり、バアルの預言者たちの祈りです。このような祈りは神との対話ではなく、神を自らの都合よく操作しようとするものです。また、神のために頑張った者が報われるという、功績主義的な考え方も強く表れています。

 このような祈りにおいて、神の思いや存在はもはや関係ありません。いかに自分の言葉を聞いてもらうか、いかに神を自分の都合よく動かすか、しかありません。主イエスははっきりと言われます。このような祈りをする彼らのまねをしてはならない、と。天の父は、願う前からわたしたちに必要なものをご存じです。異邦人たちのしていた、くどくどと言葉を述べる祈りとは、長く祈った報酬として自らの願望を聞かせようとするものです。これは父と子の愛の関係ではなく、取引や商売です。そこに愛はありません。また異邦人の祈りとは、自らが頑張らなければ神は祈りを聞いてくださらないという祈りですから、わたしたちの必要を与えてくださるという神への信頼、すなわち信仰が決定的に欠けています。

 わたしたちの父なる神は、わたしたちが願う前から、わたしたちのためにキリストをお与えてくださいました。神を拒否する罪人であるわたしたちを、わたしたち自身が悔い改める前にまず救おうとしてくださったお方です。このお方に関して、パウロはロマ書8章32節でこのように書いています。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」

わたしたちが祈る父なる神は、これほどまでにわたしたちを愛し、必要を与えてくださるお方です。それゆえ自らの言葉を聞かせるために、言葉を一生懸命重ねてくどくどと祈る必要はありません。必要を与えてくださる神に信頼して、わたしたちの願いを、必要を、感謝を、注ぎ出せばよいのです。その祈りの指針となるのが、次に主イエスがお教えになる主の祈りです。

 

 ところでわたしたちの父なる神が、わたしたちの祈る前から必要をご存じならば、もはや祈る必要はないのでしょうか。答えはNoです。もし子供が願い求める前から、親が先回りして必要なものをすべて与えてしまったら、その子供は健全に育つことはありません。親に感謝することなく、すべて自分の力で手に入れたという自らの全能感のなかで生きることになります。だからこそ、子供自身に必要を願わせて必要を満たすというやりとりが必要です。それがわたしたちにとって祈りが必要な理由です。主イエスを信じるわたしたちは、父なる神の子です。ですからわたしたちのすべての祈りをすべて、神は喜んで聞いてくださいます。その祈りに応える形で、神はわたしたちの必要を満たしてくださいます。そのなかでわたしたちもまた、神に感謝し、神を愛しながら、神と共に生きていくのです。