2024年7月21日礼拝説教「天の父の子となるために」

聖書箇所:マタイによる福音書5章43~48節

天の父の子となるために

 

 山上の説教における主イエスの律法解説は、本日の箇所で一区切りとなります。その律法解説のまとめとして教えられますのが、かの有名な「汝の敵を愛せ」という主のご命令です。今日の箇所でもこれまでと同様に、一般的に教えらえていた戒めの引用から主イエスは教え始められます(43節)。前半の「隣人を愛し」はレビ19:18の引用であり、後に主イエスが最も大切な教えの一つとして引用された箇所でもあります(22:39)。一方、後半部分の「敵を憎め」には、旧約聖書に該当する箇所はありません。前半部分のレビ記の律法を守るうえでの一般的な行動規範として付け加えられたものでありましょう。しかし主イエスが命じられる内容は違っていました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。これはわたしたちの常識からはかけ離れ、実行が困難な教えです。その一方この命令は、キリスト者やキリスト教の特徴を端的に示すものとして、たびたび引用されてきました。わたしたちキリスト者は、敵を愛せない現実と敵を愛せという主のご命令の間に立たされ困惑し、悩むのです。ただし悩むにしても、この戒めを命じられた主イエスの思い、そして律法をお与えになった神の思いがどこにあるかは、今日の御言葉からしっかりと受け取っておくことが大切です。

 まず教えられたいのは、敵を愛する目的です。主イエスが挙げておられる目的は「あなたがたの天の父の子となるため」(45節)、そして「あなたがたが完全な者となるため」(48節)です。「子は親を映す鏡」という言葉がありますが、45節の「子」はまさにこの意味があります。父なる神の御心に生きるとき、まさにその人は「父なる神を映す鏡」としての父なる神の子なのです。同様の意味が、48節の「完全な者」にも含まれています。完全という言葉が用いられている御言葉として、列王上15:14を挙げることができます。「アサの心は…主と一つであった」のなかの「一つ」が、「完全」と同じ言葉です。つまり完全な者とは、完全なる神と心が一つであることを指します。まとめますと、心も行動も父なる神と一つとなるために、敵を愛するよう主イエスは命じておられるわけです。

 次に、愛すべき対象についても見てみましょう。それは敵であり、自分を迫害する者です。今主イエスの周りにいる人びとは、主に従おうとする人々です。この人々を迫害し、敵対する者は、究極的には、神を迫害し神に敵対する者と言えます。もし我々自身が神であったとしたら、神に敵対する人々には恵みを取り去ろうとするでしょう。しかし天の父の御心は違います(45節後半)。事実、悪人のところだけ雨が降らず太陽が昇らない、などということはありません。これは、わたしたちから見れば不条理に思える世の現実です。しかしここにこそ父なる神の思いが示されています。わたしたち人間の常識ではなく、不条理さを感じてもなお神の思いを我が心とし従う者が、天の父の子であり完全な者なのです。さらに主イエスは46~47節で、我々が人間の常識のなかで生きることの矛盾を示しておられます。ここで挙げられている行動は、わたしたちも当たり前のようにしているものです。同じことを、徴税人や異邦人さえしているではないかと、主イエスは指摘されます。徴税人や異邦人は、主イエスの周りにいた人々が正しくない者、悪人、敵だと決めつけていた人々です。それにも関わらず、その徴税人や異邦人と同じように行動することの矛盾を、主イエスは示されます。もしあなたたちが徴税人や異邦人と違うと言うならば、彼らと同じ人間の常識ではなく、天の父の御心に従って行動すべきではないか。これが主イエスの問いかけです。神に逆らう者か、神に従う者か。その境界線は、自分を愛する者だけを愛することと、敵をも愛することの間にあるのです。

 さて、今日の戒めにおいてもキリスト御自身が「敵を愛せ」との教えを実践されました。先週の説教では、十字架に先立つ裁判において主イエスは、不当にも自ら暴力をふるう悪人に復讐されなかったことをお話しました。主イエスに暴力をふるった人々は、自らと意見を同じくする隣人を愛し、自らを否定する者を神の敵として憎んだのでした。これが「隣人を愛し、敵を憎め」という人間の常識に従う人々の姿であり、同じ常識を持つわたしたちの姿でもあります。主イエスは敵である人々を、そしてわたしたちを復讐の対象としないだけでなく、この上なく愛されました。十字架上で必死にとりなし、彼らの罪が赦されるように神に祈られたのです。わたしたちがキリストの十字架をとおして神からいただいているのは、まさに敵を愛するこの愛です。それほどまでに神が敵を愛するお方であり、キリストがこの神の愛を体現する神の子であり完全なお方なのです。こうして示された敵を愛する神の愛にこそ、わたしたちの確かな救いの根拠があるのです。

 

 こうして救われたわたしたちが、敵をも愛する神の愛の御心を体現するよう招かれています。そうすることによって、神の敵であるはずのこのわたしがなおも愛され救われている事実が示されます。それはこの世の常識の中に生きていては、得られないものです。「隣人を愛し、敵を憎め」が当たり前であるのが、わたしたちの生きる世界です。そこではいつ憎まれ、いつ嫌われてもおかしくないですから、不安の中でいい子を演じ、自分が価値ある存在であることを示し続けなければなりません。神の御心が実現する天の国では違います。そこでは敵をも愛する神の愛によって、わたしが確かに愛されていることが保証されています。わたしたちが「敵を愛せ」という主イエスの言葉に従って天の国に入るということは、敵であるわたしをも愛される神の愛の中で生きるということに他なりません。そこには、このわたしすらも決して見捨てられないという、本当の安心と平和があるのです。