聖書箇所:マタイによる福音書5章13~16節
地の塩、世の光とされた者の生き方
今日の御言葉を調べる中で、しばしば出てきましたのが「アイデンティティ」という言葉です。自らの存在における独自性を指す言葉です。取り替えがきく部品のような人間には、誰しもなりたくないでしょう。そうならないために、自分とは何者か、という問いに誰もが直面します。そしてこの問いが、自らの究極的な生きる目的、生きがいそのものに直結します。
今日の箇所で主イエスは、自らに従う人々に対して地の塩・世の光という新たなアイデンティティを与えられます。この文の強調点は「あなたがた」にあります。地の塩、世の光という存在は、主イエスの周りにしかいないのです。それほどまでの独自性、確固たるアイデンティティが、主イエスに従う人々には与えられているのです。しかしアイデンティティが与えられて、それで十分なのではありません。この箇所で主イエスは、地の塩、世の光として生きることの重要性を語っておられます。むしろそちらの方にこそ、主イエスの教えの本体があります。
地の塩から示されることはなんでしょうか。塩は生活に不可欠なものです。塩を使わない日はありません。地の塩もまた、地上においては不可欠の存在です。それほどまでの期待をもって、神はキリストに従う人々を見ておられます。しかし地の塩とされた者が地の塩として生きることをしないならば、外に投げ捨てられ人々に踏みつけられるだけの、弱くみじめな存在に過ぎないのです。続いて世の光から示されることは何でしょうか。この言葉からは、キリストに従う人々にどのような働きが期待されているかが示されています。光という言葉に関連して注目したいのが、4:16で引用されているイザヤ書の預言です。ここでは救い主の到来が光として示されています。世の光と言うとき、その光は救い主を指します。救い主とは、この言葉を語っておられる主イエスキリストです。そして聖書では、キリスト者がしばしば光の子と言われています(ルカ16:8、エフェソ5:8など)。ですから、世の光は、救い主キリストの救いを掲げて暗闇の世を照らす存在です。その意味で、まさに主イエスに従う人々こそが世の光です。
ところで主イエスは、「世の光」に関連して14節と15節で二つのたとえを語られています。まずは「山の上にある町は、隠れることができない」です。ここで意識されているのは、シオンの山に建てられたエルサレムの町です。エルサレムという町自体は、大国に囲まれた小国の都です。見栄えのする大都市ではありません。しかしそこには神の神殿があります。神の救いの中心地です。地理的要因だけでなく、神の救いが現わされるという意味でも、エルサレムの町は目立つのであり、隠れることができないのです。この役割を、世の光とされた人々も担います。救われて主イエスに従う人々の姿を、世の人々は見るのです。続く15節では、ともし火のたとえが語られています。ともし火をともしたならば、燭台の上に置くのは当然です。こうすることで、ともし火は、家全体を照らします。このように世の光である人々は、世の人々全体を救いの光で照らし、キリストの十字架と復活による救いを提供します。世の人々全体を照らすのですから、世の光である人々が救いを提供しなくてよい人は存在しません。
では人々の前で光を輝かせる生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。それが16節で示されています。ここで記される「立派な行い」とは、どのような行いなのでしょうか。この言葉は新改訳や口語訳聖書では「良い行い」と訳されており、こちらの方が原文の意味に近いです。必ずしも人々から褒められるような立派な行動を意図している言葉ではありません。この「良い行い」の内容が、17節以降で教えられていくことになります。それは聖書の御言葉を正しく理解して実践することです。この語りにおいて主イエスが意識しておられるのは、聖書の言葉を教えていながらもそれを正しく実践できていないファリサイ派の人々の姿です。この人々がどのように生きていたかは、6:1を見るとよくわかります。それは人に見てもらおうと努力する生き方です。つまり世を照らすためではなく、自分を照らすために生きることです。また、天の父があがめられるためではなく、自分があがめられるために生きることです。これこそが塩気のなくなった塩の生き方であり、自分だけを照らすためにともし火を枡の下に置く生き方です。そのような生き方ではなく、天の父が多くの人々にあがめられるために生きること。そのために神は、キリストに従う人々を地の塩・世の光とされたのです。
わたしたちもまた、キリストに従う者とされ、地の塩・世の光とされました。わたしたちが自分自身を見るとき、とても地の塩や世の光にはふさわしくありません。しかし神は、明確な意思をもってわたしたちを地の塩・世の光としてくださいました。そのために救い出してくださったのです。わたしたちがまず目を向けるべきは、神がわたしに向けてくださっているこの愛の眼差しではないでしょうか。この愛の眼差しに動かされて、父があがめられるために生きていくところにこそキリスト者のアイデンティティがあるのです。それは教会にいるときだけではありません。わたしたちは父なる神がたたえられるために仕事をし、家事をし、趣味を楽しみ、家族を支え、そして兄弟姉妹やあらゆる人々を愛するのです。それが、地の塩であり世の光であるキリスト者の姿です。
わたしたちを地の塩・世の光としてくださった父なる神は、わたしたち一人ひとりを唯一無二の愛すべき存在として見てくださっています。そのわたしたちがこの神の愛のまなざしに生きるとき、わたしたちもまた神の御前に唯一無二のアイデンティティを持つ存在として生きることができるのです。