聖書箇所:創世記32章23~33節
神との格闘
今ヤコブが帰ろうとしている故郷カナンには、かつて自らを殺そうとしたエサウがいます。それゆえヤコブは、大いなる不安の中にあります。彼は、この再会によっても自らが守られるよう神に祈り願っています(10~13節)。同時に彼は、周到に準備して兄との会見に臨みます。財産、そして妻や子供たちを先に行かせ、自分自身は後からエサウに会うようにしました。結果的に彼は、ヤボクの渡しにおいて独り残ることとなりました。そこで何者かに襲われ、格闘することになります。それが今日の場面です。
暗闇で見知らぬ人から襲われる。これはヤコブにとって、恐怖だったはずです。しかも今のヤコブは独りですから、自らの存在のみで格闘せざるをえません。夜通し戦うほどに、実力は拮抗していました。彼は死力を尽くして、格闘したのでした。夜明けが近づいていくなかで格闘を挑んだ人は、ヤコブに勝てないとみて、彼の腿の関節を打ちます。するとその関節が外れたのでした。これは人の力で起こるものではありません。どうやら相手が人を超えた存在であるということが、明らかとなります。このあたりからヤコブは、相手が主なる神ではないかと悟ったと思われます。夜明けが近づく中でヤコブと格闘していた人は、もう去らせてほしいと願います。この言葉は単なる懇願ではありません。ヤコブの方も腿の関節が外れて満身創痍です。ですから、もうこの辺りで祝福をあきらめて自らを去らせたらどうか、とヤコブにあきらめさせる言葉でもあります。しかしヤコブはあきらめませんでした。「祝福してくださるまでは離しません」と言って、ヤコブはしがみつき続けたのでした。
ヤコブの相手が主なる神の現れであることは、29節以降のやり取りから明らかです。そうであるとするならば、ヤコブに勝てなかった神はヤコブより弱いのでしょうか。もちろんそんなことを示すためにこの個所が書かれたのではありません。主なる神は、何の戦いもなくヤコブに祝福をお与えにはならなかったということです。一方でこのお方は、自らの全能の力でヤコブを圧倒して屈服させることもなさいませんでした。夜通しの全身全霊を尽くした格闘を経て、主はヤコブに祝福を与えられました。この個所における格闘の本質は、力で相手をねじ伏せることにはありません。祝福を与えてくださるまで、弱さの中にあっても、足を引きずりながらも、神にしがみつき続けるという格闘です。しかもヤコブはこの格闘を、誰かに任せることができません。自ら自身で、全身全霊を持って、この格闘に臨んだのです。
この格闘を経て、ヤコブには何が与えられたでしょうか。彼には、イスラエルという名前が与えられました。その意味は、神が戦われる、です。彼のそれまでの名であるヤコブは、彼が誕生する際に兄エサウのかかとをつかんでいたことに由来します。この名前がそのまま、彼の生き方を示しています。人々の足をつかみ、彼らを出し抜いて祝福を奪い取るのがヤコブの生き方でした。そこから、神が戦ってくださることが約束されたイスラエルという生き方へと変えられる。これが、彼に新しい名前が与えられた意味です。神から与えられたイスラエルという名前そのものが、格闘の末に与えられた神の祝福の内容と言えます。もはや自分の力で出し抜いて生きていかなくてもよいのです。わたしのために、神が戦ってくださるのです。
さて、祝福を得たあとのヤコブにも目を向けてまいります。旧約時代において、神を見た者は死なねばならないというのが一般的な理解でした。それにも関わらず、神と格闘したヤコブはなお生きています。これはヤコブにとって大いなる喜びでした。なぜなら、神と顔を合わせてまでも自らが生かされた事実は、兄エサウとの顔合わせに際しても命が守られることの保証となるからです。ペヌエルという土地そのものが、自らの命が神に守られることの保証でした。これこそまさに、神との格闘を経験する前からヤコブが求めていた神の祝福でした。この祝福が、イスラエル「神が戦われる」という内容をもって与えられたのです。この大きな祝福を得たヤコブは、一方で腿を痛めて足を引きずっています。神との格闘は現実です。その格闘の中でヤコブは実際に痛みをうけ、足を引きずっています。弱さの中にあります。しかしそのことが、実は神の祝福のしるしでもあるのです。格闘の末に傷つき弱っている、そのような人にこそ、神はイスラエルという祝福を与えてくださるのです。
これは十字架という格闘を経て神の祝福を得てくださったキリストにも当てはまります。まさにキリストはわたしたちのために格闘し、苦労し、痛みを負い、弱くなってくださいました。だからこそわたしたちはこのお方を心から我が主と仰ぐことができるのです。というよりも、神であるキリストがわたしたちのために十字架で格闘してくださったことそのものが、イスラエル(神が戦われる)という祝福です。このイスラエルという祝福を得るために、わたしたちも格闘するのです。この格闘は、自分の力で祝福を勝ち取る戦いではありません。弱さのなかで、足を引きずりながらも、それでも祝福を与えてくださる神にしがみつき続ける戦いです。往々にしてわたしたちは格闘によって痛みを負うときに、「だから神などいないのだ」といって神を手放してしまうのです。しかし、そう思いたくなる現実を前にしても、必死に神の祝福をもとめてしがみつき続けること。足をひきずりながらも、神の祝福を求め続けること。これがわたしたちに与えられている神との格闘です。それは神のために頑張る戦いではなく、神の祝福をあきらめない戦いです。この格闘の先にこそ、イスラエル(神が戦われる)という祝福がわたしたちに与えられるのです。