2024年3月31日イースター記念礼拝説教「キリストの復活と神の恵み」

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一15章3~11節

キリストの復活と神の恵み

 

 受難週からイースターへと至るこの過程は、十字架の死ののち復活された主イエスキリストの歩みを踏まえたものです。この手紙を書いた使徒パウロは、このキリストの十字架と復活の歩みを「最も大切なこと」として書き記しています。キリストが死なねばならないほどに、わたしたちの罪は大きいのです。そのわたしたちが、キリストの十字架のゆえに救われました。ここに、パウロの語るキリスト教の教えの一つの中心があります。本日は、もうひとつの中心であるキリストの復活について学びます。キリストの復活のゆえに、わたしたちには死後の復活の希望があります。しかしキリストの復活は、死後にだけ希望をもたらすのではありません。わたしたちの日々の生活、わたしたちの生き方全体に関わります。キリストの復活が、わたしたちをどのような生き方へと導くかを、共に学びたいと願っています。

 この手紙を書いた使徒パウロは、9節において自らに対する自己評価を記しています。決してうわべだけの自己卑下ではありません。パウロ自身の心からの自己評価であり罪の告白です。だからこそ、この言葉には説得力があります。このパウロが、次の10節では一転して自らの働きを強調して記しています。自分は使徒と呼ばれるに値しない、と書いたならば、自分がこれまでの自分の働きも取るに足らないものだ、と続けるのが自然でしょう。このように自らの働きに対しても徹底的にへりくだる姿こそが、信仰者の鏡だとわたしたちは思いがちです。しかしパウロは、自分こそが他の使徒よりもずっと多く働いたと書いています。このように9節の自己評価と10節の自らの働きに対する評価には、大きなギャップが存在します。このギャップを埋めるのが「神の恵み」です。パウロは、わたしに与えられた神の恵みが無駄にならなかった結果として、わたしが多くの働きをしたのだと、記しています。それどころか、働いたのはもはやわたしではなく神の恵みであるとまで書いています。パウロが何よりも示したかったのは、全くの罪人である自分をとおして神の恵みが働いたことです。

 パウロの語る「神の恵み」とは、何でしょうか。この箇所の前にも後にも、書かれているのはキリストの復活についてです。ですからこの恵みもまた、キリストの復活に基づく神の恵みです。キリストの十字架からは、すでにわたしたち自身の罪の深刻さが示されました。そしてキリストの復活からは、罪人であるわたしたちをとおして働かれる神の恵みが示されます。キリストの復活の恵みに与るということは、単に生物学的に息を吹き返すことに留まりません。新たな働きをなす新たな生き方へと復活させられるということです。これは決して、死後にやっと与えられるものではありません。今、このとき、新たな生き方へと変えられるのです。空しい目的でしか生きられなかったこのわたしが、神の恵みによってこのうえない働きに召される生き方へと変えられるのです。それはどのような生き方でしょうか。それはこの手紙を書いた使徒パウロの歩みから示されます。パウロはかつて、神の教会を攻撃し、迫害していました。他者を責め、傷つけ、殺してでも、自らの正しさを証明する。それが彼のかつての生き方でした。このパウロが、復活の主イエスを出会ってからは、自らが迫害される立場になりました。それでもなおキリストの十字架と復活の恵みを伝えました。それによって人々を救うためです。自分の正しさを示すために人々を攻撃し滅ぼす生き方しかできなかったパウロは、自らが傷ついてでも人々を救う生き方へと変えられました。これがキリストの復活によって与えられる「神の恵み」の働きです。自分を救うために他者を足蹴にする生き方から、他者を救うために自ら重荷を負う生き方への変化です。この変化をとおして、神の恵みの働きが、あらゆる人々に示されていくのです。

 キリストの復活により、わたしたちの内にもパウロと同じ神の恵みが与えられています。わたしたちは皆、キリストを十字架につけるほどの罪人です。そのようなわたしたちを、この神の恵みが、誰かを救うために働くことへと動かします。本来救いに全くふさわしくない罪人であるこのわたしが、神の恵みによって人々が救われるために働く者とされる。ここにもまた、大きなギャップがあります。このギャップこそが、キリストの復活による神の恵みの働きです。もし自らを神にふさわしい者であると誇るならば、いくら頑張って働いても、このギャップは生まれません。立派な人が立派な結果を残すのは当たり前です。そこで示されるのは神の恵みではなく、働いた人自身の成果でしかありません。ではわたしたちは、神の御前に罪人であると受けとめればそれだけでよいのでしょうか。そうではありません。罪人だからと言って何も行動を起こさず生き方も変わらないならば、そこにもギャップは生まれません。

 

 人間は、自分が誰かのために生きているときにこそ充実した人生を歩むことができるのです。自分だけのため、ではだめなのです。ただ自分のためだけに生きることは空しいのです。自分のために財産を積み上げても、自らの死後には誰も褒めてくれません。誰かのために生きるときにこそ、自らの死を超えて人は本当に輝くのです。キリストの復活による神の恵みは、まさにその生き方へとわたしたちを導きます。自分のためにしか生きられなかったこと。それがキリストの十字架に示されたわたしたちの罪です。そのようなわたしたちが、誰かの救いのために生きることができる。それがキリストの復活の恵みによって可能になるのです。この新たな生き方こそが、このイースターにわたしたちに与えられた神の恵みです。神の恵みに生かされる歩みを、今日ここから始めようではありませんか。