2024年3月24日受難週主日礼拝説教「キリストの死と人の罪」

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一15章1~9節

キリストの死と人の罪

 

 本日は受難週で来週はイースターです。言わずと知れた、キリストの十字架の死と復活を覚えるときです。この教えをパウロは、3節において「最も大切なこと」として挙げています。この教えにこそ、キリスト教の中心があります。キリストの十字架と復活の教えに固く立つことが、わたしたちにとっても教会にとっても極めて重要です。けれどもこの十字架と復活が、わたしたちの生き方にどのような意味を持つかはあいまいになりがちです。今を生きるわたしたちに、十字架と復活がどのような意味を持つのか。それを今週と来週の二週にわたって学んでまいります。

 パウロは3節で最も大切な教えを記すにあたり、1~2節でこのことを書くに至った背景を説明しています。パウロがすでに伝えたはずの十字架の死と復活の教えが、コリント教会において疑いの対象となっていました。12節には、教会内の一部の人が「死者の復活などない」とすら言っていたことが記されています。この教えは、生活のよりどころとしている福音です(1節)。それゆえこの教えがあいまいになるならば、その影響は必ず生活や生き方に現れます。それがコリント教会においては、教会の交わりを軽視する、という形で現れていました。例えば14章26節以下でパウロは、集会の秩序を守ることの大切さを書いています。集会の秩序よりも自らの考えや理解を優先する個人主義的な信仰に傾倒する人々が、コリント教会にいたということです。その彼らに、パウロは改めて十字架と復活の教えを書いています。つまり彼は、個人主義的な信仰の原因として、キリストの十字架と復活の理解のあいまいさがあると見ています。それゆえに彼は、改めて自らが告げ知らせた福音の中心を記すのです。

こうして3節から、いよいよパウロは最も大切な教えを記し始めます。パウロはここで書くことを、自分自身も受けたものだと記します。リレーのバトンのように、パウロはキリストから受けた教えをコリント教会の人々へと伝えるのです。だからこそこのバトンを受け取るコリント教会の人々も、それをキリストの教えとして安心して受け取ることができるのです。3~5節にかけてパウロは、大切な教えを要約して4つのことを挙げています。一つ目は、キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、二つ目は葬られたこと、三つ目は聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、四つ目はケファに現れ、その後十二人に現れたことです。本日は、キリストの死と葬りを中心に取り上げます。キリストはわたしたちの罪のために死んでくださった。これは言うまでもなくキリストの十字架の死を指しています。キリストが葬られたことは、キリストが確かに死なれたことの証しです。自明とも思えるキリストの死が、残念ながらコリント教会では自明ではなくなってしまっていました。

 ところでパウロは、先ほどの4つの重要な教えを書いた後、復活のキリストが誰に現れたかを順に挙げていきます。注目したいのはその順序です。ケファと呼ばれる主イエスの一番弟子ペトロを筆頭として、主イエスに近い順に使徒たちの名前が挙げられています。その最後にパウロは、使徒たちのなかで最も小さい者として自らを挙げています。その理由は9節に記されています。これはパウロの罪の告白です。それを踏まえると「わたしたちの罪のために」死なれたという3節の言葉が重みを持ってきます。彼にとってこの罪は決して過去のことではありません。教会を迫害したわたしは、今なお使徒と呼ばれる値打ちのないものである。これがパウロの自己評価です。それほどのわたしの罪をも担って、キリストは十字架上で死んでくださったのです。このような自己評価をここに記した理由は、キリストの十字架の死があいまいなコリント教会の人々に、自らの罪を軽く見る傾向を見たからです。教会の秩序を軽視し、個人主義的な信仰へと走ることができるのは、自らに自信があるからです。それは自らの罪を軽く見ることの裏返しです。自らの罪を軽視できるのは、キリストがわたしの罪のために死なざるを得なかった重大さを軽んじることによってのみ生じます。それがまさにコリント教会の抱える問題でありました。

 わたしたちはどうでしょうか。キリストの十字架の死を否定しないとしても、その原因となった自らの罪をはたして受けとめることができているでしょうか。わたしたち人間は、自らの罪を深刻ではないと考えてしまう癖をもっています。わたしたちが自らの罪を軽く扱うほど、キリストの十字架の死の意味も軽くなっていきます。そして救いの根拠がキリストの十字架からわたしたち自身に移れば移るほど、信仰的な自らを誇るために個人主義に走り、他者との競争の中に身を置かざるを得ません。周りの人々を見下しながら、自分が見下されることを恐れつつ生きざるを得なくなります。このような競争の中で他者を見下し、蹴落とし、最後には殺してしまう。これこそキリストが十字架で担ってくださった、わたしたちの罪なのです。

 

 わたしたちはキリストの十字架の死をとおして、他者との競争に走る自らの罪の深刻さを知ることができます。この深刻さを知り、受けとめるときに、キリストの十字架の死はわたしたちを、この果てしない競争から救います。わたしたちは救われるために、何かを犠牲にしたり立派であるかのように装ったりする必要はないのです。キリストの十字架の死こそ、他者との競争のなかで疲れ果てたわたしたちに与えられた希望です。わたしたちには、キリストの十字架さえあればよいのです。この唯一かつ確かな希望が、個人主義ではなく互いに愛し合う教会の交わりをとおして示されます。ここにこそ、わたしたちを救うキリストの福音が現れるのです。