聖書箇所:マタイによる福音書4章12~17節
闇の中の光
マタイ福音書ではこれまで、神の子救い主がどのようなお方であるかが記されてきました。このお方が今日の17節から活動を始められます。主イエスの宣教活動は、主イエスがどのようなお方であるか、という点に深くかかわっています。これまで語られてきた主イエスの姿をふまえつつ、主イエスがここから行われようとしている働きについて学んでまいりましょう。
今日の箇所において洗礼者ヨハネが捕らえられたことが記されます。ヨハネはもうこれまでのような活動が継続できなくなりました。これをきっかけに主イエスはガリラヤに退かれ、そこで宣教活動を始められます。洗礼者ヨハネと救い主キリストの活動が同時になされることを慎重に避けていることが分かります。洗礼者ヨハネの働きはどこまでも、やがて来る救い主のために道を整え準備をすることでした。しかし今や、その救い主が来られました。ヨハネが捕らえられたことは、この準備の働きが終わったことを示します。こうして主イエスは活動を始められます。この活動開始のタイミングもまた、主イエスこそが洗礼者ヨハネの示した救い主であるということが意識されています。
13節では、ガリラヤ地方に退かれた主イエスの移動経路が記されています。聖書巻末の6番の地図にはガリラヤ地方にあるナザレとカファルナウムの位置が、4番の地図にはゼブルンとナフタリの地方が記されています。ナザレがかつてのゼブルン地方に属し、カファルナウムがかつてのナフタリ地方に属します。ですからカファルナウムをゼブルンとナフタリの両地方に結び付けているのは、若干違和感があります。ただマタイがここで重要視しているのは、主イエスの細かい移動経路ではありません。主イエスがガリラヤ地方にあるかつてのゼブルンとナフタリを巡られたという点です。それが分かりやすいように、このような書き方がなされています。なぜなら、この主イエスの行動が、14~16節のイザヤ書の預言の言葉の実現だからです。これはイザヤ8:23と9:1の引用です。このイザヤ書の救い主の到来の預言が、ゼブルンとナフタリ、そしてガリラヤを巡られた主イエスキリストによって実現した。マタイはこのことを示すのです。ところでゼブルンやナフタリ、ガリラヤとは、イザヤが預言した当時はどのような場所だったのでしょうか。これらは先ほど見た地図のなかでも北の方に位置しています。それは北から攻めてきた大国アッシリアに真っ先に占領された地域です。大国による支配の悲惨を真っ先に被ったのがこれらの地方でした。16節で記されている「暗闇に住む民」や「死の陰の地に住む者」とは、アッシリアに占領され、その支配のもとで苦しんでいるこの地域の人々を指します。そのような悲惨の中にある人々が、アッシリアに象徴されるこの世の力や常識に基づく悲惨な支配から解放される。それを語ったのがこのイザヤ書の預言の言葉です。そしてこの解放を実現するお方こそ、主イエスキリストです。そのための活動を、主イエスはここから始められるのです。
では、このような民の解放はどのようになされるのでしょうか。それがここで引用されているイザヤ書の預言の続きの箇所に記されています(イザヤ9:2~6)。特に6節では、ダビデの王座とその王国について言及されています。ここにあるのは、神のご支配の実現です。今はアッシリアという神ではないものに支配され悲惨の中にある人々が、神のご支配に入ることで救われていく。それがイザヤ書の預言です。この神のご支配を実現されるのが救い主キリストのお働きであり、これから始まる宣教活動で実現していくことなのです。このことが、17節の主イエスの宣教の言葉にもつながっています。天の国とは、さまに神のご支配のことです。悔い改めとは、神以外の者に支配されていたその悲惨から脱して、神のご支配のもとに入ることです。主イエスは十字架と復活の御業によって、この天の国すなわち神のご支配を実現する王となられたのです。
人は誰しも、何かしらの支配のもとに歩んでいます。何かしらの価値観に従うことによって、わたしたちは自らの意見、あるいは自らの生き方を決めていかざるをえないのです。だからこそ、どのような価値観に従うか、誰に従うかが、生きていくうえで極めて重要です。従う相手を間違えると、悲惨なことになります。主イエスは、天の国は近づいたと語られます。悔い改めの決断をしさえすれば、誰でも天の国に入ることができる。それほどまでに神のご支配は近づきました。なぜなら王なる主イエスキリストが地上に来られたからです。だからこそ今悔い改めて、神のご支配に入れと主イエスはわたしたちを招かれるのです。神のご支配に入ると聞くと、窮屈に聞こえるかもしれません。自分はもっと自由に生きたいと、望むのかもしれません。しかし神のご支配の中に入らないということは、神以外の何かの支配のもとに留まるということです。ですから究極的には、わたしたちが何に従うかが問われているのです。十字架によってわたしたちのために命を投げ出してくださった方とわたしの王として、神の支配に従うのか。それとも神ではない何かに従うのか。この決断を、わたしたちは迫られています。
神以外のものは、神が愛するようにはわたしたちを愛してはくれません。そのような支配のもとに生きるのは苦しいではないですか。しかしわたしたちは、そのような支配から解放されて今ここにいます。だからこそ、この神に、そして十字架のキリストに、お従いして生きていこうではありませんか。キリストによる神のご支配に従うところにこそ、まことの解放と自由があります。神のご支配によって自由にされた民として、この一週間を歩んでまいりましょう。