聖書箇所:マタイによる福音書3章1~12節
天の国は近づいた
今日の箇所で語られる天の国とは、聖書の語る天国と言ってよいでしょう。多くの方が「天国」と聞いてイメージするのは、こちらから行ってたどり着く場所であり、そこに行きさえすれば手放しで喜ぶことのできる場所でしょう。しかし洗礼者ヨハネの語る天の国は、それとはかけ離れています。ヨハネによれば、天の国の方から来てくれるようです。しかも、もうそこまで来ているとヨハネは語ります。これは喜ぶべきことでしょうか。ヨハネは必ずしもそうは語りません。もし備えをしないまま天の国が来たならば、切り倒されて火に焼かれてしまいます。そう考えますと、天の国は恐ろしい場所のように思えます。しかも、この天の国がそこまで来ている。それゆえ今備えをする必要があります。どのように備えるべきでしょうか。それを今日の箇所から学び、そしてぜひとも行動へと移してまいりたいのです。
洗礼者ヨハネが現れた時期について、1節の冒頭で「そのころ」とあります。2章までで記されてきた主イエスの誕生と洗礼者ヨハネの登場が、関連付けて記されています。主イエスが地上に来られた時代に、洗礼者ヨハネも活動を始めました。彼は預言者イザヤによって言われていた人でもあります(3節)。ここで引用されているイザヤ40:3は、バビロン捕囚に苦しむ民の救いが語られ始める箇所です。主が民を救うにあたり、その道を整えることが命じられています。それを呼びかける人が、この洗礼者ヨハネだとマタイ福音書は記します。つまり彼は、神が救いの御業を行うにあたってその準備をする人です。続く4節では、彼の服装について言及されています。この服装は、預言者の一般的な格好です(ゼカリヤ13:4参照)。ヨハネが登場するまでの約400年間、預言者は途絶えていました。その沈黙を破って登場した特別で偉大な預言者。それが、マタイ福音書が描く洗礼者ヨハネの姿です。この人が語った約400年ぶりの預言の言葉が2節の言葉です。このように400年ぶりに預言を語った洗礼者ヨハネのもとに、エルサレムとユダヤ全土、そしてヨルダン川沿いの地方一帯の人々がやってきます。彼らはヨハネのもとに来て罪を告白し、彼から洗礼を受けました。ここでの洗礼は、悔い改めと結び付けられています。ヨハネが洗礼を授けることによってなしていた神の救いの準備とは、人々を悔い改めさせることでした。この悔い改めこそが、天の国が来る時代になすべき備えなのです。
ところで彼のもとには、ファリサイ派とサドカイ派の人々も大勢、洗礼を受けにやってきました。そんな彼らに決定的に欠如していたのもまた悔い改めでした。彼らにはそれぞれに、自らの歩みのよりどころとしていたものがあります。ファリサイ派の人々は聖書知識とその実践、そしてサドカイ派の人々は祭司という自らの地位です。このような彼らの考え方の違いにも関わらず、彼らが洗礼を受けようと思った動機は同じでした。それは自らの歩みのよりどころを肯定し、強化することです。今の自分の生き方に箔をつけ、神の御前に自らの価値を高めること。それこそ彼らがヨハネのもとに来た理由でした。彼らの洗礼の動機に、自らを否定する悔い改めはありませんでした。その彼らに洗礼者ヨハネは、悔い改めの実を結ぶよう迫ります。口先だけでない、生き方の変革の必要性を説いたのです。ヨハネがそれを迫ったのは、天の国の到来が裁きを伴うからです。悔い改めの実という行動を伴う心からの悔い改めがなされなければ、天の国が来た時に切り倒され火に投げ込まれてしまいます。この裁きがなされる天の国は、今まさに近づいています。もう時間的猶予はありません。だからこそ、今、このとき悔い改めることが大切なのです。この裁きを行われる方が、「わたしの後から来る方」です(11節)。それは明らかに、主イエスキリストを暗示しています。
洗礼者ヨハネは「天の国は近づいた」という預言と共に、そこで裁きを行われるキリストに言及します。ですから天の国とは、キリストがご支配される王国を指します。そして洗礼者ヨハネはこのお方と自らを比較して、自分はこのお方の履物をお脱がせする値打ちもないと評価します。履物を脱がせるのは、奴隷の仕事です。キリストを前にして、奴隷の価値すら自分にはないとヨハネは語ります。彼は特別にして偉大な預言者です。それにもかかわらず、自らは神の御前に無価値だと言い切ります。これこそが、洗礼者ヨハネの悔い改めです。悔い改めとは自らの存在そのものが、神の御前に救われる価値が全くないことを認めることです。これこそが、天の国が近づいた今わたしたちがなすべき備えです。それが、ファリサイ派やサドカイ派の人々にはできませんでした。彼らにとって、悔い改めの言葉を口にすることも、洗礼を受けることも、神の御前に自らの価値を高めるための道具でしかありませんでした。そのような彼らが、天の国の王である主イエスを拒否し、このお方を十字架につけることになるのです。
わたしたち自身も、ファリサイ派やサドカイ派になっていないでしょうか。神様は、へりくだって悔い改めの言葉を口にするわたしに、他の人々よりも大きな価値を置いてくれるだろう。このような思いによって、わたしたちは悔い改めすらも、自らの価値に箔をつけるための道具としてしまうのです。そのような者だからこそわたしたちは、救われるにあたって神の御前に何の価値も持ちえません。この事実に心砕かれるとき、天の国の到来は喜びとなります。なぜなら天の国の王たるキリストの十字架と復活の御業は、そのような砕かれた人々を救うためになされたからです。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。この悔い改めを洗礼者ヨハネと共にすること。これこそ天の国が近づいた今、わたしたちがなすべき備えです。そのところにこそ、聖書の語る天の国は来るのです。