2024年1月7日礼拝説教「この子は自分の民を罪から救う」

聖書箇所:マタイによる福音書1章18~25節

この子は自分の民を罪から救う

 

 主イエスキリストの系図に続いて記されている今日の箇所も、クリスマスではお馴染みである主イエスキリストの誕生の物語です。特に主イエスの父ヨセフに焦点が当てられています。主イエスの母マリアは、ヨセフと婚約中に聖霊によって身ごもります。しかしヨセフから見れば、マリアが裏切ったとしか思えない状況です。ヨセフは正しい人であったので、罪を犯したとしか思えないマリアを公衆の面前で罰することを望みませんでした。おそらくは大変な葛藤を抱えながらも、マリアと密かに縁を切って済ませようとしたのでした。そのヨセフに、夢の中で天使が語りかけます。マリアは聖霊によって身ごもったこと、そしてマリアから生まれる子が民を罪から救う救い主メシアであることがヨセフに知らされます。この言葉を聞いたヨセフは、妻マリアを迎え入れる決心をしたのでした。

 さて、婚約者マリアの妊娠を知ったヨセフが彼女を受け入れるこの物語は、ここだけを切り取って語られることが多いように思います。しかしこの物語がキリストの系図に続いて記されているという点は、非常に重要です。まずもってこの物語に登場するヨセフとマリアは、直前の系図で最後に記されている人物だからです。17節までの系図は、神の約束がアブラハムに与えられてから実現するまでのつながりを記しています。ここで言うところの神の約束とは、すべての民の救い主を与えるという約束です。アブラハムからヨセフとマリアに至るまでおよそ2000年、人々は神の約束の実現を待ち望みました。そしてついに、ヨセフとマリアから誕生したイエスによってこの約束が実現しました。それが直前17節までの系図で記されています。それならばどのようにして神の約束が実現したのか。その詳細が、今日の物語のなかで記されています。したがって、今日の箇所は決して独立した物語ではありません。神の約束を踏まえて読むべき物語なのです。

 ところで約束は、約束した本人の働きによって叶えられなければ守られたとは言えません。神の約束も、神ご自身の働きによって叶えられなければ守られたとは言えません。そのために大切な言葉が「聖霊によって」です。この言葉が、今日の短い箇所のなかで18節と20節の二度にわたって記されています。この物語における聖霊の働きは、処女受胎という人知を超えた奇跡の原因として語られることが多いのです。確かにその通りなのですが、それよりはるかに大切なことは、人の力ではなく神が救い主を与えてくださったという点です。「聖霊によって」とは、神の働きを示す言葉です。ヨセフとマリアをとおして、主なる神がご自身の約束を実現してくださった。だからこそマリアは、聖霊によって身ごもったのです。主イエスが生まれるまでヨセフがマリアと関係を持たなかったのも、聖霊によってマリアが身ごもったことが明らかになるためです。

 こうして聖霊によってマリアの胎に宿り、彼女から生まれる男の子によって民の救いは与えられる。この子こそが、神の約束された救い主である。このように、主の天使はヨセフに明かしました。ここでいう救いとは、政治的な意味合いにおける極めて現実的な救済を意味する言葉です。救いとは、この地上を生きるなかで直面する具体的な苦しみからの解放を含みます。一方でこの救いは、罪の赦しによって実現すると天使は語ります。それゆえ、単なる政治的な救済にはとどまりません。神との関係を含む、より大きな救いの実現がここで語られます。「この子は自分の民を罪から救う」という天使の言葉とつながるのが、26:28にある主イエスの聖餐式制定の御言葉です。この聖餐式の言葉は、その後主イエスがおかかりになる十字架の血による罪の贖いへとつながります。自ら血を流すことによって救いをもたらす。これが、神が約束してくださった救い主のお姿です。この十字架の御業によって、神の約束は実現したのです。

 このキリストの十字架にこそ神の救いのもたらされ方が、そして神の約束の実現の仕方が示されています。キリストが痛みを負い、悩み苦しむことをとおして神の約束は実現しました。この痛みや悩みは、マリアの妊娠を前にしたヨセフも同様でした。マリアの妊娠を前にして、彼もまた深く悩み苦しんでいました。それはヨセフが正しい人であるがゆえの悩み苦しみです。もしヨセフが正しくない人だったら、彼はマリアを告発して徹底的に罰していたことでしょう。誰かの罪を前にしたとき、責めるのが一番楽なのです。しかし仮にヨセフがマリアを責めていたら、主イエスの誕生という神の約束は実現せず、主イエスの十字架による救いも実現しませんでした。しかしヨセフは、天使の言葉によって妻マリアを迎え入れました。天使の語った神の御心に従うことは、ヨセフにとって重荷でした。その重荷を、ヨセフはあえて負ったのです。

 

 今日の説教の中で、神の約束はどこまでも神のお働きによって実現したとお話しました。しかし同時に神の救いの約束は神に従って悩み苦しみ、葛藤した人々が用いられて実現した側面もあるのです。年明けの一週間を過ごしたわたしたちもまた、大きな苦しみや悩みに直面しました。目を覆いたくなるような大きな痛みがありました。それゆえにわたしたちには葛藤があります。このような状況下においては、自分ではない誰かを責めたいという気持ちになります。それが一番楽でしょう。しかしそのなかでわたしたちはなお、葛藤のなかで生きるのです。こうして、葛藤の中で十字架にかかられた主イエスの十字架の救いが、わたしたちをとおして示されていくのです。この歩みの先においてこそ、神の約束であるキリストの十字架の血による罪の赦しが実現していくのです。