2023年12月31日礼拝説教「主が共に 恵みが共に」

聖書箇所:テモテへの手紙二4章19~22節

主が共に 恵みが共に

 

 本日は大晦日です。一年の最後の日に、残っていましたテモテへの手紙二の結びの御言葉に聞きます。使徒パウロから、エフェソ教会の監督テモテに宛てて書かれた手紙です。エフェソ教会に仕えるテモテは、反対者たちに悩まされていました。この手紙を書いたパウロ自身も困難の中にありました。パウロもテモテも共に反対者たちに囲まれ、厳しい信仰の戦いを強いられていました。このような厳しい信仰の戦いは、パウロとテモテだけのものではありません。その後のキリスト者の戦いでもあり、また今年を終えようとしているわたしたちの戦いでもあります。信仰を守る戦いの厳しさは、今の時代も変わらないようにわたしは感じます。命を救う信仰を守り、伝え、継承していくこと。それがパウロやテモテの時代と同様に厳しい時代を、今のわたしたちもまた生きています。

 この厳しい信仰の戦いの中にあって、パウロがこの手紙の最後に記すのが22節の言葉です。テモテへの言葉でありながら、この言葉にすがるように手紙を結ぶパウロの思いをも感じます。主が共にいてくださること。神の恵みが共にあること。これらこそが、信仰的な戦いにおいて寄り頼むべき望みであり、命綱です。パウロの書いた22節の言葉は、世の理を超えた抽象的なものではありません。この言葉を記す前に、パウロは親しい人々の名前を挙げています。この人々は、パウロとテモテが反対者たちに囲まれる中にあってもなお二人を支えた人々です。パウロやテモテにとって、この人々の存在が、主が共にいてくださり恵みが共にあることと結びついています。パウロがテモテをしきりに自らのもとに呼び寄せようとしたこともまた、パウロがテモテをとおして神の恵みを求めている側面があるでしょう。

 ではここで名を挙げられている人々は、パウロとどのようなつながりをもっていたのでしょうか。まずはプリスキラとアキラ。ローマを追放された彼らは、コリントでパウロと出会います。その際パウロを家に迎え、一緒に仕事をした仲です(使徒18章)。さらにアジア州に行くパウロに同行し、テモテと共にエフェソ教会に仕えていた人です。続いてオネシフォロ。この人は、ローマで投獄されたパウロを恥とも思わず尋ねた人物でした(二テモテ1:16)。次にエラスト。聖書には、この名前はローマ1:23と使徒19:22で登場します。どちらのエラストが該当するかははっきりしませんが、どちらにしてもパウロと共にいて支えた人であることは確かです。次にトロフィモ。第三回の宣教旅行でパウロに同行した人です。彼が異邦人でありながら神殿にいたことが発端となり大きな騒動に発展します(使徒21章)。それによってパウロが逮捕されることとなりました。最後にローマでパウロと共にいた人々として、エウブロ、プデンス、リノス、クラウディアの名前が挙げられています。彼らの詳細は不明ですが、パウロが投獄され囚人となってもパウロの許を離れなかった人々です。

 このようにして挙げてみますと、彼らは立派な信仰者というよりもパウロと共に労苦した人々であると言えます。コリントで激しい反対にあったパウロと共に行動したプリスキラとアキラ。他者の目を気にせずパウロを尋ねたオネシフォロ。騒動の渦中でパウロと共にいたトロフィモ。パウロと共にローマにいた人々もまた、囚人パウロと共にいる以上、何かしらの困難や人々からの偏見にさらされたでしょう。ここに挙げられているのは、パウロとテモテの周りにいて、共に苦しんでくれる人々の名前なのです。22節の言葉は、共に苦しんでくれる人々との交わりと深く結びついています。その最たる例が、十字架の主イエスキリストです。十字架をはじめとしたキリストの地上のご生涯すべてが、わたしたちがこの世で負っている苦しみを共に負ってくださる歩みでした。このキリストをとおして、主がわたしの霊と共にいてくださることが、そして神の恵みがわたしたちと共にあることが示されたのです。そしてこのキリストを信じ、パウロやテモテと共に苦しみを負った人々が、信仰の戦いの中にあるパウロとテモテにもまた主が共にいてくださることを示す存在となったのです。

 

 このことは、信仰の戦いの中にいるわたしたちにとっても同様です。第一に、十字架のキリストがわたしたちと共にいてくださいます。それは世の理と関係なく示されるのではありません。共に苦しむ人々をとおして現わされていくものです。わたしたちがこの地上を歩むあいだは、すべての問題が解決し、悩みが全く消え去り、重荷がなくなることはありません。今年一年の歩みを振り返っても、様々な問題がありました。わたしたち自身も周囲の人々も様々な重荷、痛みを負っています。これらを共に悩み、共に重荷を担い合うところにこそ、主が共にいてくださるのであり、神の恵みが共にあるのです。それは見方を変えれば、わたしが誰かのために悩み苦しむことをとおして、兄弟姉妹に主の恵みが共にあることが示されるとも言えます。これとは反対に、悩んでいる人々を突き放すことは簡単です。それは、あなたの怠惰が招いたことだ。自己責任だ。世の中には、そのような責める言葉で溢れています。しかしわたしたちは、共に悩むことのできる者でありましょう。そしてちゃんと悩むことのできる教会でありたいのです。あたかも問題がないかのように目を背けたり、あるいは、苦しむ人々の責任を追及して無関係を決め込んだりするのではなく、皆で重荷を負い、皆でちゃんと悩める教会でありたいのです。その歩みにおいてこそ、主が共にいてくださいます。共に苦しむ歩みにこそ、十字架に示されたキリストの恵みがわたしたちと共にあるのです。これこそが、激しい信仰の戦いを戦うわたしたちの唯一にして確かな希望なのです。