聖書箇所:マタイによる福音書1章1〜17節
メシアと呼ばれるイエスの誕生
クリスマスおめでとうございます。わたしたちは今月に入って、クリスマスを待ち望むアドベントのときを過ごしてきました。待ち望んだ末のクリスマスだからこそ、その喜びは大きいのです。大人になりますと、クリスマスが楽しみだと思う気持ちは薄れていくように思います。もうクリスマスが来てしまう。その先には年末年始が待っている。そんな慌ただしい思いの中でクリスマスを迎てしまうのかもしれません。しかしクリスマスを待つ姿勢としては、子供たちの方が正しいのです。なぜなら約2000年前の救い主の誕生においても、長年それを待ち望み続けた人々がいたからです。
今日見ますのは、新約聖書の冒頭にある主イエスキリストの系図です。ここに書かれているのは、救い主の誕生を待ち続けた人々のリストです。彼らが救い主を待っていたのは、「救い主があなたたちに与えられる」という神の約束があったからです。この約束が最初に与えられたのは、アブラハムでした(創世記22:18)。ここで「あなたの子孫」が、わたしたち含め地上の諸国民すべてが祝福を得るために約束された救い主です。この救い主が、時代を経るなかでメシアと呼ばれるようになります。今日の系図がアブラハムから始まるのは、彼がこの神の約束を最初に与えられたからです。「あなたの子孫」とありますから、アブラハムの系図であることが大切なのです。アブラハムの子孫としてお生まれになった主イエスキリストこそ、神が約束してくださった救い主・メシアである。これが新約聖書の最初にして、中心のメッセージです。
ところでアブラハムから主イエスの誕生までの約2000年間、人々が変わらぬ思いで神の約束の実現を待ち続けたのではありませんでした。あたかも株価が上下するように、神の約束の実現の期待は時期によって上下します。それに関連して、この系図には二つのターニングポイントが記されています。ダビデ王とバビロンへの移住です。
ダビデ王とは、アブラハムの子孫が建てた王国の偉大な王です。彼は様々な失敗を重ねつつも、生涯にわたって神により頼み続けた王でした。人々からも偉大な王として讃えられた人物です。それゆえにダビデ王の時代は、ダビデによって神の約束が実現するのではないかと期待が高まったときでもありました。株価で例えるならば、急騰した時代でした。ダビデ王こそ、救い主メシアではないか。そんな期待が高まったのです。このとき神は、ダビデ王に対してさらなる約束をお与えになりました(サムエル下17:12~13)。端的に言ってしまえば、救い主は「あなたではない」ということです。あなたの子孫がわたしの約束を実現するのだと、神は明かされたのでした。こうして再び約束された救い主・メシアを待つ時代が始まりました。
こうしてバビロンへの移住へと至ります。この時代に、王国はバビロンによって滅ぼされます。神の約束の実現は、はるか遠のきました。リーマンショックのごとく、期待の株価大暴落です。そしてこの期待がしぼんだ安値状態が、基本的にはキリストの誕生まで続いていくことになります。バビロンへの移住から主イエスの誕生まで600年弱。もはや大半の人々は、神の約束への期待を失っていました。そのようななかでひっそりとお生まれになったのが、メシアである主イエスキリストでした。あまりにひっそりとお生まれになったので、多くの人々は救い主の誕生に気づきませんでした。仮にダビデ王のいた時代のような期待の膨らんだ時期にキリストがお生まれになっていたら、より多くの人々が救い主の誕生に気づいたはずです。こうして誕生した救い主ならば、人々の期待を一身に受け、人々に尊敬され、讃えられながら救いの業を力強くなしたことでしょう。しかしキリストは違いました。人々からは期待もされず、忘れられたところにひっそりとこの方はお生まれになりました。その後この救い主は人々から見捨てられ、死刑囚として十字架にかけられて殺されたのでした。大半の人々は、まさかこのお方が神に約束された救い主であるなどとは夢にも思いませんでした。
なぜメシアは、これほど分かりにくい形でひっそりとお生まれになったのでしょうか。それは世の中で見捨てられた人々が、神の祝福を得るためです。実際に、見捨てられた人々や病に悩む人々、悲しみの中にある人々が、主イエスこそ約束されたメシアであることを見出していくことになります。それが、新約聖書の最初の系図に記された救い主のお姿なのです。
わたしたちは今日このクリスマスに、浜松教会に集められました。ここに集うわたしたちもまたそれぞれに、世を生きるなかで何かしらの痛みを負いながらここに集っています。仮に何の痛みも悩みもないならば、わざわざ教会に来る必要などありません。世の中には、もっとクリスマスを楽しめる場所がたくさんあります。明るいイルミネーションを見て、感動的な時を過ごせばよいのです。いつもより豪華でおいしいご飯を食べ、その満足感に満たされればよいのです。しかしそれではわたしたちの持つ悩みや重荷が満たされることはありません。だからこそわたしたちは、今日、救い主・主イエスキリストを求めてここに導かれたのです。
神の祝福は、見栄えのしない、社会から忘れられたような場所に与えられます。この浜松教会は決して大きく見栄えのする教会ではありません。山手町の端の、人通りの少ない場所に集められた教会です。会堂の一部は傾き、時に雨漏りもする建物に集う教会に過ぎません。そしてそこに集うわたしたちもまた、決して偉大な者ではありません。しかしささやかな者の集うささやかな場所にこそ、クリスマスの喜びは与えられるのです。わたしたちに与えられたこの神の祝福を、この教会で共に喜び祝おうではありませんか。