聖書箇所:マタイによる福音書1章1〜6節a
ヨシュア記2章1〜24節
誠意と真実
キリストの系図に登場する女性たちの歩みから、救い主について学んでいます。今日とりあげるのはラハブです。彼女が登場するのが、ヨシュア記です。エジプトを出た神の民イスラエルが、神の約束にしたがってカナンの地獲得へと行動を起こします。その神の民に立ちはだかったのが、城壁に囲まれたエリコの町でした。この町に住んでいた遊女がラハブです。彼女は高貴な女性ではなく、時代にほんろうされる大変小さな存在に過ぎません。しかしこの女性が、マタイ福音書の救い主の系図に加えられています。その意味を考えてまいりたいのです。
神の民を率いていたヨシュアは、エリコを攻めるのに先立ち二人の斥候(すなわちスパイ)を送り情報収集をしました。この斥候たちは、遊女ラハブの家に入ります。そこは、風俗店というよりも宿屋に近いものであったと言われています。宿屋には情報も集まります。斥候が情報収集するのに適した場所でありました。同じ頃、エリコの王は自分たちの町に斥候が来たことを知ります。追手がラハブの家に来ました。斥候たちにとっては非常に危険な状況です。しかしラハブが彼らをかくまうことで、当面の危機を乗り切ることができました。
自分たちの町を攻めるために送られた斥候たちをラハブがかくまった理由は、8節以下で語られます。それは彼女が、エジプトから出た後の神の民の歩みに、主なる神の圧倒的な力を見たからでした。それは葦の海の水を干上がらせたことによって、そしてシホンとオグという二人の王が滅ばされたことによって示されたものでした。このような神の圧倒的な力を目の当たりにしたのは、ラハブだけではありません。9節で彼女は言います。
「わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆おじけづいている」
皆が神の御業を目の当たりにし、皆がおじけづいています。おじけづくとは、溶けるという意味の言葉です。主なる神の力を前に、これまで自分たちが土台と信じてきたものが溶け落ちて、全く頼りにならないのです。そのような事態に、誰もが直面しています。ラハブ以外の人々は、そのことから目を背けています。恐怖のなかで必死に主なる神に抗おうとしています。そのなかでラハブだけが、神の民を守ってこられた主なる神の力に目を向け、それを認めます。この神へのラハブの信仰告白が11節です。主なる神の力を認めるということは、それまで自分が頼りにしてきたあらゆるものが、取るに足らないものであったことを認めることと同義です。ラハブだけは、これまでの自らの歩みを否定して、主なる神の力を認めたのでした。それゆえに斥候たちをかくまったのです。それはラハブにとって、自らの身を危険にさらす行為もあります。それでも彼女は、この主なる神に自らの人生、自らの命をかけたのでした。ラハブは自身のこの行動を指して「あなたたちに誠意を示した」と言っています(12節)。主なる神のゆえに、命を助ける。それがここで言う誠意の中身です。同じ誠意を、自分たちにも示してほしいと彼女は願ったのでした。彼女はこの願いを、この斥候たちの背後におられる主なる神に求めたのでした。これに対して14節で、彼らもまた命をかけて誠意と真実を示すと誓います。ただし斥候たちはこの誓いに対して、我々のことをだれにも漏らさないなら、という条件をつけます。斥候たちの命もまた、ラハブの行動に委ねられているからです。彼らもまた、ラハブの背後で働かれる主なる神の守りを必要としていました。
ところで斥候たちは、ラハブの家の窓から逃げる際、誓いに対してさらなる条件をつけます。その条件とは、斥候たちをつり降ろした窓に真っ赤なひもを結びつけておくことと、彼女の家に親兄弟や一族の者を一人残らず家に集めておくことです。真っ赤なひもが結ばれた家が、主なる神の裁きからの逃れ場です。そこに留まり続ける限り、命は守られます。しかし戸口から出た場合には、主なる神の守りを失うのです。戸口から出る行為は、主の守りにより頼むことを拒否し、自分の力で自分を守る生き方を選択することを意味します。その生き方に、命の保証はありません。
信仰によって救われる。これがプロテスタント教会の確信です。それは、「信じます」と言えば行動はまったく問われないのではありません。このことはヤコブの手紙で強調されています(ヤコブ2:25参照)。主を信じる者に求められる行動とは、主なる神の守りのうちに留まり続けることです。ラハブや彼女の一族にとってそれは、真っ赤なひもを窓に結んだ家に留まり続けることでした。この家に留まることが、彼らの信仰でした。その信仰が、彼らを救うことになったのです。
このラハブが、キリストの系図に名を連ねることとなりました。彼女は当時のイスラエル民族との血のつながりはありません。それでも彼女は、神の民に加えられたのです。旧約聖書における神の民とは、イスラエルという民族のことではなく、主の守りのうちに留まり続ける信仰の民を指します。それは新約時代の神の民も、現代の神の民であるわたしたちも全く変わりません。主により頼み、主の守りの内に留まり続ける民のために、主なる神がクリスマスの救い主をお与えくださいました。この救い主の十字架こそが、わたしたちにとって留まるべき家であり、逃れ場です。十字架という逃れ場のうちに留まる者の命を救い出し、守り抜いてくださる。これがクリスマスに与えられた救いです。キリストの十字架によるこの救いをとおして、命を守られる主なる神の誠意と真実が示されました。わたしたちもまた、十字架に示された神の誠意と真実のうちに留まり続けようではありませんか。