2023年12月3日アドベント第一主日礼拝説教「不義のなかで示される正しさ」

聖書箇所:マタイによる福音書1章1〜6節a

     創世記38章6〜26節

不義のなかで示される正しさ

 

 クリスマスを待ち望むアドベントは、決してクリスマスの前座ではありません。アドベントもまた、とても大切なときです。なぜなら、キリストは突如として現れたポッと出の救い主ではないからです。長い歴史のなかで、救い主の到来が待ち望まれ続けてきました。マタイ福音書の系図がそれを示しています。ではどのような状況のなかで、そしてどのような望みをもって、救い主は待ち望まれたのでしょうか。それを系図に登場する女性たちから見つめてまいりましょう。今日は、この系図に最初に登場する女性であるタマルを取り上げてまいります。

 タマルが登場するのは、創世記38章です。彼女はユダの長男の嫁として迎えられた人でした。しかし長男が死に、ユダの次男の妻となります。しかしこの次男も死に、三男シェラの婚約者となります。シェラはまだ成人していませんでした。そのため彼が成人するでは実家に帰り、やもめとして生活するようにタマルは命じられました。夫が死んだ際に、その嫁が夫の弟の妻になる。この制度は、レビラート婚と呼ばれるものです(申命記25章参照)。これは家の存続が重視された当時の時代状況が反映された制度であると同時に、残された女性の権利を守る意味もあったと考えられます。この後タマルは行動を起こすことになります。その目的は、レビラート婚の制度が実施されないことに対する抗議でした。女性の立場からしても、その実施が望まれる。それがこの当時のレビラート婚でありました。

 三男のシェラが成人したならば、彼と正式に結婚できる。それが、タマルがユダから与えられた約束でした。しかしシェラが成人しても、その約束は実行されません。そこでタマルは行動を起こします。顔を隠し、娼婦の格好をしてユダの前に現れました。それを見たユダは嫁のタマルであると気づかず、彼女を娼婦として買おうとします。女性をお金で買う。これは決して聖書の推奨する性関係ではありません。けれども理想的ではない人の世の現実をも、聖書は赤裸々に描き出します。二人の間には、報酬を巡る極めてビジネスライクな交渉が行われます。ユダは報酬として、群れの中から子山羊を一匹送り届けることを提案します。タマルは、報酬を受け取るまでの保証の品を欲しいと要求します。こうしてタマルは、ユダの持っていたひもの付いた印章と杖を預かり受けたのでした。こうしてユダは彼女の床に入り、それによって彼女はみごもったのでした。後日ユダは友人のアドラム人を遣わして、報酬の子山羊を届けようとします。しかしタマルは見つかりません。ユダは自らが物笑いの種になることを恐れ、それ以上の捜索はせず、内密に済ますことにしました。

 24節からは三カ月ほど後のお話が記されます。この時点でタマルの妊娠がユダの知るところとなりました。それはタマルが、婚約者のシェラ以外の男性と性的関係を持ったことを意味します。それゆえにユダは怒ってタマルを焼き殺そうとします。実際にそうする権利を、ユダは持っていました。そこでタマルは、自らが持っていたユダの印章と杖を差し出したのでした。こうしてタマルと関係を持ったのが、ユダであることが明らかとなります。これらを見たユダは、「わたしよりも彼女が正しい」と認めたのでした。ユダのこの発言こそ、この物語の結論です。それは聖書の示す裁きであり、聖書の示す正しさの一つの姿です。

 ところで今日のお話において、正しい人は出てきたでしょうか。ここに描かれているのは、関係が壊れた欠けだらけの家族の姿です。タマルは娼婦の姿で義父を誘惑しました。義父であるユダはユダで、極めてビジネスライクに自らの欲望に従って女性を買います。さらにその自らの行動を内密に済ませようとしました。どちらも主の正しさから大きく外れています。しかし聖書は、ユダよりもタマルの方が正しいと語るのです。ユダとタマルの違いはどこにあるでしょうか。それはユダが持てる者であり、タマルが持たざる者であった点にあります。タマルはシェラとの結婚の約束を守ってもらえませんでした。その状況のなかで、律法に反することではあっても彼女は行動せざるを得ませんでした。それに対してユダは、地位も名誉も権力も持っていました。物笑いの種になることを恐れるほどに、人の評価を気にする立場にありました。持てる者であるユダが自らの罪を内密にし、持たざる者であるタマルの罪を大きな問題として裁こうとします。持てる者が自らの闇をひた隠しにし、持たざる者が犯さざるを得なかった罪をことさら大きく取り上げる。そのような理不尽は、今の世界でも起こっています。そのなかで持たざる者の小さな声がかき消され、無視されています。そのような小さな人々の象徴、それがタマルなのです。

 

 このタマルの救い主として、キリストはお生まれになりました。皆さんが今まさに持たざる小さな者として虐げられているならば、その声を神は聞いてくださいます。そしてそのような者の救い主として、主イエスキリストは来てくださいます。反対にもしわたしたちが、自らの罪を内密にしながら誰かの罪をことさら大きなものとして責めるならば、いくらクリスマスを喜んでもそれは本当のクリスマスの喜びではありません。そもそもわたしたちが今この礼拝の場において神を礼拝できるのは、小さな者であるわたしたちの重荷を担って、キリストが十字架を身に受けてくださったからです。わたしたちは力なき者として虐げられています。わたしたちがそのような小さい者であるがゆえに、クリスマスは喜びなのです。この救い主の到来を、共に待ち望み続けようではありませんか。