2023年11月5日礼拝説教「世を去るときの望み」

 

聖書箇所:テモテへの手紙二4章6~8節

世を去るときの望み

 

 直前の4:5において、パウロはテモテに自らの働きのバトンタッチをしました。それに続く今日の箇所で、パウロは死が差し迫った自らの状況を記して自らの希望を語りだします。死とは誰にでも訪れる地上の歩みの終わりのときです。人生において極めて特別かつ重要なときです。途中どれほど調子のよい人生を送ろうとも、死ぬ間際に希望がないならばそれは良い人生とは言えないでしょう。死の間際にこそ、その人の生き様やその人が本当に持っている希望が現れます。パウロは、これまで異邦人伝道に励んできました。そして極めて大きな成果を残しました。その彼が、この死の間際に一体どのような希望を語るのでしょうか。そして今を生きるわたしたちが、死を前にしても持つことのできる希望とはなんでしょうか。ひととき御言葉から考えてみたいのです。

 6節は、死が切迫しているパウロの状況が強調されています。いつ自分が地上の生涯を終えてもおかしくないという書きぶりです。そのようなパウロが、自らのこれまでの歩みがどのようなものだったのかを7節で記しています。戦い抜く、走りとおす、守り抜くという3つの動詞はいずれも完了形です。自分に与えられた務めは果たしきったと、パウロは自らの歩みを振り返っています。それに続く8節前半では、このようにして歩んできた自分がどのような報酬を主から受けることができるのかを書いています。自らの務めを果たしきった自分は、正しい審判者である主から義の栄冠を受けることができる。パウロは自信を持って、この希望を語ります。彼がなしてきた働きを考えれば、パウロが主から義の栄冠を受けるであろうことは誰もが認めることでありましょう。死ぬ間際に、これほど自信をもって希望を語ることができるのは素晴らしいことです。

 その一方で、わたしはこの箇所を読みながら違和感を覚えました。そこまで自信を持って言い切っていいのだろうか、と。この手紙を書いているパウロの自己評価は、高くありません。決して完璧な歩みではなかったはずです。もちろんパウロの働きに疑義をはさむつもりはありません。けれどもパウロの書き方に、少なくともわたしはある違和感を覚えました。この違和感を解消するためには、少し広い視野でパウロのこの言葉を見る必要があります。彼は、なぜここで自らの人生の振り返りを書いたのでしょうか。もし自らのなしてきた成果を自慢するためならば、傲慢とのそしりは免れないでしょう。しかしこれまでこの手紙で書かれてきたパウロの主張を見る限り、そうとは考えられません。つまり、ここでの記載には別の目的があるのです。

 ところでパウロは、自らの死をどれほど差し迫ったものと理解していたのでしょうか。彼がいつ地上の生涯を終えてもおかしくない状況に置かれていたのは事実です。ただしその状況であったとしても、明日死刑執行しますと宣言されているのと、まだ猶予がありそうだという見通しがあるのとでは、状況が全く異なります。そして9節以下の内容を見る限り、パウロは後者であったと考えられます。それでもパウロは、自身をあたかも今まさに死にゆく人間として語り、その後に義の栄冠を主から確実に得るものとして語っています。それは、ここでの記載がテモテを励ますために書かれたものだからです。今まさに逆境の中に置かれているテモテに、それを耐えきった先にある大きな希望を示す。ここにパウロの目的があります。このことは8節後半の語りに反映されています。死の迫ったパウロの持っていた希望の中心は、自分が栄冠を得ることにあるのではありません。主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれでも自分と同じ栄冠が授けられることに、パウロの希望の中心があるのです。この希望の筆頭がテモテでした。これからはテモテがパウロの働きを引き継ぐことになります。テモテもまたパウロと同じように苦労することになるでしょう。それはまさに、苦難のなかで主が来られるのを待ち望む歩みです。そしてテモテもやがて、その歩みを終えるときがきます。そのときテモテにもまた、義の栄冠を主から与えられることになるのです。この希望を、パウロはここでテモテに示しているのです。

 教会においては、人はいかにして救われるかが重要な教えとして扱われます。しかしそれが、「自分がどう救われるか」という自らの救いだけに集中してしまうなら問題です。現代は社会においても、教会にも、そしてわたしたち個々人にも、余裕のない時代です。誰もが自分のことだけで手一杯です。自分の救いだけで精一杯であり、自分だけの希望を確保するのに必死です。しかしキリストの十字架と復活の希望は、自分を救うことで精いっぱいな程度のものなのでしょうか。そんなはずはありません。

 誰かの救いを自らの希望とする。共に主を信じる兄弟姉妹が、主の御前によくやったと褒められることを、自らの喜びとする。死の迫ったパウロの希望の中心は、まさにこの点にありました。このまなざしで、お互いに接し合う。そのところにこそ、死を超えたキリストの十字架の希望が確かに示されていくのです。わたしたちはこの後、聖餐式に与ります。わたしの周りには、主が現れるのを待ち望みながら共に聖餐式に与る兄弟姉妹がいます。そのことを喜ぶ者でありたいのです。そしてその喜びがさらに増し加えられるために、主に仕えるものでありたいのです。

 

 この希望は、決して死が迫ったときだけ頼りになるものではありません。自分の救いを願ってくれている人がいる。自分が主にほめられることを、心から喜んでくれる人々がいる。そういった関係に、わたしたちは誰もが支えられています。そのような関係の中に、死を超えたキリストの力が与えられていくのです。