2023年10月8日礼拝説教「折が良くても悪くても」

聖書箇所:テモテへの手紙二4章1~5節

折が良くても悪くても

 

 本日から最後の4章に入ります。ここでパウロは厳粛にテモテに命じます。その命令の重みの理由は、パウロが死を目前にしていたからです(6節)。6節以降は個人的な内容ですので、公の形での命令は今日の箇所が最後です。それゆえに重みがあります。その重みのある命令に、パウロはさらに重みを加えます(1節)。生きている者と死んだ者との裁きや主イエスキリストの出現とその御国といった世の終わりの出来事を見据えながら、自らの終わりの言葉をパウロはテモテに伝えます。絶対にこの命令は守ってほしい。そのような強い思いの中で、今日の言葉は書かれています。

パウロの命令は、2節から具体的に記されます。まず命じられているのは「御言葉を宣べ伝えなさい」です。御言葉とは、3章の最後で語られた聖書の教えです。テモテの反対者たちが語っているような自己都合の言葉ではなく、力あるこの御言葉をあなたは宣べ伝えよと、パウロは命じます。続いての命令は、折が良くても悪くても励むことです。折の良し悪しは、自らの置かれた状況を指します。実際テモテの置かれていた状況は悪かったのです。しかしそれに関わらず励みなさいと、パウロは命じます。「励みなさい」は、「備える」「準備する」と訳せる言葉です。この意味を踏まえるならば、主が来られる終わりの時を見据えて、折が良くても悪くても備え続けることです。この意図が、パウロにはあったと考えられます。

 ですからここまでの命令は、必ずしも未信者への伝道だけに限定して理解されるべきではありません。そもそもテモテの反対者たちは未信者ではありません。まずもってテモテが御言葉を宣べ伝えるべき相手は、教会の中の人々なのです。このことは2節後半に続く命令にも表れています。これらの命令もまた、教会の中にいる人々への対応に主眼を置いています。もちろん教会の外にいる人々への伝道も大切です。けれども、このときテモテがまずしなければならなかったことは、教会に集う人々に正しく御言葉を宣べ伝えることでした。ところで2節後半の命令は、意味を広くとらえるならば3:16の聖書の働きと重なります。ですからここでテモテが命じられているのは、聖書にある御言葉が力を発揮するように働くことです。極端に言うならば、御言葉の持つ力を邪魔しないことです。これこそが、御言葉に従うわたしたち、とりわけ牧師の働きにおいて最も重要なことなのです。しかしそれは難しく、また苦難が伴います。それゆえ忍耐強く行う必要があります。

 3節からは、健全な教えから離れていく人々の姿が記されています。その冒頭には、新共同訳聖書では訳されていない「なぜなら」という言葉があります(新改訳聖書などを参照)。つまり3節以降の内容は、2節までの命令を守らねばならない理由です。御言葉を宣べ伝えよ、励め、戒め、教えよ。なぜなら、だれも健全な教えを聞こうとしない時が来るからだ。これが、パウロの遺言なのです。そして実際、エフェソ教会にはすでにその兆候が現れていました。ではパウロの語る「健全な教え」とはなんでしょうか。それはパウロが宣べ伝え、テモテが受け継いだ福音です。福音とは、キリストの十字架と復活という神の御業による救いの知らせです。人々はそれに聞かず、自分に都合の良いことを聞こうとします。ここでは「健全な教え」と「自分に都合のよいこと」が対立関係にあります。健全な教えが「神の御業による救い」ならば、自分に都合のよいこととは「人の行いによる救い」です。誰もが、人の行いを基準として救われるか否かの境界線を引くようになるのです。その境界線は、自分が救いの側に入るように周到に調整されたものです。ですから人の行いによる救いは、自分に都合の良い教えなのです。それを後押ししてくれる教師を、人々は寄せ集めます。こうして人々はキリストという真理から耳を背け、自己都合の作り話の方へそれていくのです。頑張っているあなたこそが、特別に神に愛され救われている。そんな自己都合の分かりやすい教えに、誰もが流れていくのです。

 続く5節は「しかしあなたは」と始まり、テモテへの命令が再び記されます。身を慎むこと。それは反対者たちの自己都合で分かりやすい教えから、自らを清めることです。テモテもまた、福音から離れて自己都合な聖書理解に陥る危険があるのです。なぜなら彼は、周囲にいる誰よりも福音のために頑張っていたからです。同じ弱さは我々にもあります。だからこそ、誰もがそのような教えから身を慎む必要があるのです。健全な教えに留まる歩みには、苦難があります。人々が聞きたいと願う教えと対立するからです。だからこそ耐え忍ぶ必要があります。テモテも、我々も、状況は同じです。それでもなお福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たせと、死を目前に控えたパウロはテモテに命じます。この命令は、いわばバトンタッチです。これまで福音宣教者として働いてきたのは、パウロでした。これからはテモテが、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしていくのです。福音宣教者の伝える福音とは、上述のとおり神の御業による救いの知らせです。この喜びの知らせを、自らの行いに救いの根拠を置かざるを得ない人々に宣べ伝えていくこと。これがパウロからテモテに渡されたバトンです。このバトンリレーが2000年もの間なされ続け、わたしたちもまたこのバトンを受け取ったのです。このバトンをあらゆる人々に渡していく。これこそが、わたしたちに託された務めです。

 

 人の行いにではなく、ただキリストにこそ救いがある。これこそ我々が宣べ伝えるべき御言葉です。主が来られる終わりの日を見つめつつ、折が良くても悪くても、この福音のバトンを守り抜くべく備え、励んでいこうではありませんか。