2023年10月1日礼拝説教「聖書によって整えられる」

聖書箇所:テモテへの手紙二3章10~17節

聖書によって整えられる

 

 エフェソ教会で牧師として仕えていたテモテを配慮するために、この手紙は書かれました。それが必要なほどの困難に、テモテは置かれていました。それは彼の教えに反対する人々がいたからです。この反対者たちの教えは、聖書の教えを自分勝手に改変したものでした。そのような彼らの無知は、いずれすべての人々の前に明らかとなる。このことを、前回学びました。しかし今はまだ、彼らの無知は明らかになっていません。彼らの教えは、いまだエフェソ教会のなかで力を持っています。12節には、信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けるとあります。まさにこの状況に、テモテは置かれていました。それはテモテだけでなく、すべてのキリスト者にとっても同じでありましょう。そのなかでどう生きていくべきかを、今日のところから教えられたいのです。

 10節冒頭の「しかし、あなたは」という言葉によって、テモテと反対者たちの違いが強調されています。テモテが反対者たちと違っていたのは、テモテが使徒パウロに倣った点です。具体的には、パウロの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐です。それだけではありません。11節にある迫害と苦難もまた、10節最後の「倣い」の内容に含まれています。テモテは、パウロの教えや行動や意図などだけでなく、パウロの受けた迫害と苦難にも倣ったのです。この迫害と苦難は、アンティオキア、イコニオン、リストラでパウロが受けたような迫害と苦難です。使徒13~14章に、そのときのことが記されています。そこにはパウロに反対するユダヤ人たちが、執拗なまでにパウロを覆いかけて宣教を妨害する姿が描かれています。一方リストラでは歓迎されていますが、それがいきすぎて異教の神として崇められてしまいました。こういった誘惑もまた、パウロの語る迫害や苦難に含まれます。そのような迫害にパウロは耐え、主がそのすべてからパウロを救い出してくださいました(11節後半)。そしてパウロの受けた迫害と苦難に倣うテモテもまた、同じようにそれに耐えることができるのです。また主がそのすべてからパウロを救い出したように、テモテをも救い出してくださるのです。

 反対者たちはどうでしょうか。パウロは彼らを、悪人や詐欺師と書いています。彼らは互いに惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。惑わす教えの方が、居心地がいいからです。こうして彼らの悪は、どんどん加速していきます。それが極まった様子が、この後の4章3~4節に記されています。これは、おそらくエフェソ教会の現状をある程度反映しているものと思われます。これが、13節に記された反対者たちの姿です。

 だが、あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはならないと、14節から再びテモテへの勧めが記されます。学んで確信したことを、困難のなかでもなお確信し続けるためには、しっかりとした確信の根拠が必要です。その根拠が14節後半~15節前半です。ここで聖書が出てきます。聖書こそがわたしたちの確信の土台であることは、皆さまよくご存じでしょう。けれどもここでパウロは強調するのは、聖書そのものよりも、聖書をどのように学んだかです。第一にパウロが挙げるのは、聖書を誰から学んだか、です。それは使徒パウロだけでなく、彼の祖母ロイスと母エウニケも含まれます。彼らの共通点は、テモテを愛していたことです。自分を愛してくれる人から聖書を学ぶからこそ、聖書は福音であるし信頼できるのです。次にパウロは、テモテが幼い日から聖書に親しんできたことを確信の根拠として挙げます。すなわち聖書を学んだ期間です。テモテが人々に教えていたのは、彼が幼いころから長い時間をかけて学んできたことでした。祖母ロイスの時代にはすでに教えられていた教えであると同時に、使徒パウロが伝えた教えです。使徒の教えは、教会の伝統に裏打ちされた教えです。これらの時間的な裏打ちがあるからこそテモテの教えは確信できるのです。

 この教えによるならば、聖書とはどのような書物として理解されるべきでしょうか。それが15節後半~17節です。まず押さえるべき点は、「キリスト・イエスへの信仰を通して」です。聖書を読んでさえ言えれば、自動的に救いに導かれるのではありません。テモテの反対者たちもまた聖書を用いていたことから、それは明らかです。キリスト・イエスというお方を求め、その十字架と復活の御業を信じる。この信仰をとおして聖書を読むことで、わたしたちは初めて救いへと導かれるのです。この聖書は神の霊の導きの下に書かれています(16節)。それは、聖書の福音の根拠がどこまでも神にあるということです。だからこそ聖書は人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益なのです。そして神に仕える人は、聖書を通してどのような善い業をも行うことができるように十分に整えられるのです。ところでパウロは、聖書のことをテモテに教えるためにこのことを書いているのではありません。ここでパウロがテモテに伝えようとしたことは、聖書の福音の根拠が神にあるから「その教えに留まれば大丈夫だ」ということです。どれほどの迫害や困難の中にあっても、どれほど聖書の御言葉が力なく感じられたとしても、聖書の根拠は神にある。だからこそ聖書には人々を正し、神に仕える者を整える確かな力があるのです。

 

 わたしたちは聖書の力を否定する社会に囲まれています。そのなかで、自分が学んできた聖書の教えに力がないのではないか、罪深いわたしに善い業を行わせるような力は聖書にはないのではないかと、不安になってはいないでしょうか。しかし長く教会によって受け継がれ、このわたしを愛してくれた人々から受け継いだ聖書の教えには確かな力があります。だからこそ、聖書にある御言葉に留まって歩んでいこうではありませんか。