聖書箇所:マタイによる福音書22章34~40節
誰を愛して生きますか
「あなたはどんな人間ですか」と聞かれた際に、どうお答えになるでしょうか。自らの性格やお仕事といった「自分が何者か」という視点から答える方が多いでしょう。けれども自らを形作るものの大半は、親や友人といった他者から影響を受けたものです。それゆえに、他者との関係は自らを考えるうえでとても大切です。誰とどのような関係を築くか、という点を抜きにして自分という存在を語りきることはできません。そのような他者との関係の中心にあるのが、愛です。聖書の言うところの愛は、必ずしも恋愛には限定されません。ひとまず、相手を心から大切に思う関係として理解いただければよいでしょう。「誰を愛するか」つまり「誰を心から大切に思うか」ということが「わたしがどんな人間か」に大きく影響するのです。
今日の場面で記されているファリサイ派とサドカイ派とは、いずれも聖書を教える立場にあった人々です。ただ両者は、聖書理解に違いがあったためあまり仲が良くありませんでした。そして律法と預言者は、どちらも聖書を指しています。今日の場面は、聖書の先生たちが主イエスのところに来て、聖書のなかで一番大切な教えは何かと尋ねる場面です。質問を投げかけたのはファリサイ派の人々でした。その目的は主イエスを試すことでした。サドカイ派の人々を言い込められた主イエスを試すことで、自分たちこそが聖書を正しく理解していると示そうとしたのです。ファリサイ派の人々のなかの一人で律法の専門家が代表して、主イエスに最も重要な掟を尋ねます(36節)。すると主イエスは申命記を引用して、あなたの神である主を愛することだとお答えになります(37,38節)。この回答を聞いたファリサイ派の人々には、納得感があったと思います。実際彼らはその戒めを大切にしていたからです。そしてこの回答は、キリスト教を信じている方々にとっても同意できるでしょう。また神を信じていない方にとっても府に落ちると思うのです。確かに宗教は神を何よりも大切にするよね、といった具合に。
しかし主イエスのお答えは、ここで終わりません。主イエスは続けて第二の戒めをお答えになられます(39,40節)。主イエスが尋ねられたのは、最も重要な掟のみです。けれども主イエスは、聞かれてもいない第二の掟をお答えになられます。隣人を自分のように愛しなさい。この戒めもまた旧約聖書からの引用です。隣人とは隣にいる人々であり、生きていくなかで何かしらの繋がりのある人々です。大切なことは、愛すべき隣人に例外はないという点です。親しい人々を自分のように愛しなさい、ではありません。あなたの隣にいる人々は皆、例外なく、自分のように愛しなさい。心から大切にしなさい。これが神を愛するのと同じように重要な聖書の教えです。
主イエスに質問した律法学者の隣には誰がいたでしょうか。同じファリサイ派の仲間たちがいます。目的を同じくする仲間同士ならば、愛することができていたでしょう。しかし彼の隣人には主イエスがおられ、サドカイ派の人々がいます。この人々を、ファリサイ派の人々は見下していました。彼らにとって隣人とは、自分が優れていることを示すための道具でしかありませんでした。そのような彼らを、主イエスは第二の掟をお答えになることによって痛烈に批判しました。そのような彼らは、第一の掟も守れていませんでした。第一の掟には前置きとして心と精神と思いを尽くすことが記されています。これは「全身全霊を持って」という意味です。彼らの神への愛は、全身全霊の愛ではありません。なぜなら主イエスのところに来た彼らの目的は、自分が優れていることを示すためだったからです。この目的に都合のいい範囲内でのみ、彼らは神を愛していました。そしてその目的に都合の悪い範囲で、彼らは神を無視していました。その最たる例が第二の掟なのです。彼らの愛は、神に向いているように見えて、最終的には自分自身に向いていました。彼らは自らの目的のために、神を利用したのです。それは隣人との関係についても同様でした。彼らは、自分の目的にかなう都合のよい人々だけを愛していました。そして自分の目的に叶わない、都合の悪い人々を見下していました。最終的に彼らは、自分たちを批判する都合の悪い主イエスキリストを、十字架につけて殺すことになります。
ここで、考えてみてください。自分に益をもたらしてくれる人々だけを大切にするファリサイ派の人々の考え方は、わたしたちも納得できる常識的なものです。わたしたちは皆、この考え方を常識として理解し、そのなかで生きています。こうしてわたしたちは皆、周りの人々がどれだけの益を自らにもたらしてくれるかを評価し、同じ基準で周りの人々からも評価されています。そのような窮屈な関係を超えた人間関係を築くべきではないか。主イエスは第二の掟をとおして、わたしたちを招かれます。そしてその生き方を、主イエス御自身が実践されました。それが罪人の身代わりとしての主イエスキリストの十字架です。主イエスが十字架で担われた罪とは、愛さないことです。主イエスを愛さず十字架につけたファリサイ派の人々を、主イエスは愛してくださいました。同じ愛が、隣人を愛さないわたしたちにも向けられています。このキリストの愛によって、わたしたちが互いに愛しあうことができるようになるためです。それは、自分にとって都合の悪い人々をも愛する愛です。このキリストの愛に生きることを目指す。それがキリストを信じる者の生き方です。この愛が行われる場所が、キリストを信じる人々の集まる教会です。自分の益にならない人をも大切にするなど、なんと損な生き方なのだと思われるでしょう。しかしその生き方の先にこそ、わたしたちが心から安心し喜んで生きる道があるのです。この生き方を、ぜひともここにいる皆様に初めていただきたい。心からそう願っています。