2023年7月23日礼拝説教「報酬と正しさ」

聖書箇所:創世記30章25~36節

報酬と正しさ

 

 本日は、労働の報酬をめぐるヤコブとラバンの駆け引きの場面です。教会では、報酬や対価について積極的に語られる機会は多くありません。しかし、これらは生活に直結する大切なことです。このことに対して、神はどのような御心を持っておられるのかを、今日の御言葉から学びましょう。

 ヤコブは、ラバンの娘たちを妻に迎えるために働いてきました。この期間が終わったことを「ラケルがヨセフを産んだころ」という記載が暗示しています。このタイミングでヤコブは、生まれ故郷のカナンへと帰りたいとラバンに申し出ます。ヤコブのこの願いは、彼にとっては単に独立すること以上の意味があります。ヤコブが帰ることは、ヤコブをカナンの地に帰らせるという神の約束の実現でもあるからです。今こそ神の約束が実現するときが来たとヤコブは判断しました。そしてラバンに申し出たのでした。その申し出に対してラバンは、ヤコブを引き留めます(27~28節)。ラバンが引き留めたのは、ヤコブを慕っていたからではありません。ラバンがヤコブをとおして主の祝福を受けていたからです。ラバンが求めたのは主の祝福です。ここでいう主の祝福とは、家畜の数(すなわち財産)のことです。29節以降のヤコブの回答から、それは明らかです。ヤコブもラバンも、所有する財産は主の祝福であり、神からの恵みであるという共通認識があります。わたしたちが報酬や財産を考える際にも、この視点から始める必要があります。

 ヤコブを引き留めるために、ラバンはヤコブに対して希望する報酬を尋ねます(28、31節)。これらは、今後働き続ける際の給与交渉です。ヤコブが去る際の報酬ではありません。今日のラバンの態度から想像するに、このままヤコブが去るならばラバンは何も持たせる気はなかったでありましょう。この箇所を学ぶにあたって見ておきたいのが申命記15章12~18節です。この申命記の律法の基準でいうならば、ヤコブに対するラバンの待遇は奴隷にも劣ります。ラバンは自分の家畜を増やしてたくさんの利益をもたらすヤコブを、低待遇で働かせていました。ラバンは経営者としては優秀です。けれども神の御前にはどうなのでしょうか。ラバンは神の民ではありませんから、律法に従うことを強制されることはありません。けれどもラバンも、ヤコブをとおして主の祝福が自らに与えられていることを知っています。それにもかかわらず彼は、律法に示された主の御心を無視しています。主なる神を利用して、自らの利益は徹底的に得ようとする。しかし不利益や面倒事は徹底的に避ける。これがラバンの神に対する態度であり、ヤコブに対する態度です。果たしてこれは健全なのでしょうか。

 このようなラバンに対してヤコブは、自らの望む報酬を伝えます(31節後半~33節)。ヤコブが求めた報酬は、ぶちとまだらの羊をすべてと羊の中で黒みがかったものをすべて、それからまだらとぶちの山羊です。家畜全体からすれば、決して多くありません。ヤコブはラバンのもとで働き続けるにあたり、大変つつましい報酬を求めました。ヤコブの目的は、多くの報酬を得ることではなく、自らの正しさを証明することにあります。ラバンはこの申し出を了承したうえで、報酬の対象となる家畜を息子たちの手に渡して遠くに追いやります。ヤコブの求めたつつましい報酬をも、限りなくゼロにしようとしました。ラバンが、ヤコブとの約束を破ったわけではありません。彼は法の穴をついて自らの利益を最大化しようとしました。法律の世界では、彼の行動は正しいのです。けれどもヤコブが求める正しさとは、主なる神との関係における正しさです。神が祝福の源であり、報酬の源であられます。この神の御前に、ラバンは正しいと言えるのでしょうか。他者の生活を犠牲にしてまで自らの利益に固執する姿は、先ほどの申命記の御言葉で奴隷の生活をも配慮されている神の御前に正しいものではありません。では神の正しさとは何でしょうか。それは利益を得ることによってではなく、利益を与え分け合うことにおいて示される正しさです。これこそが、主イエスキリストの十字架によって示された正しさです。キリストは自らの利益を求めるのではなく、自らをわたしたちのためにお与えくださいました。ここに、ヤコブの求める神の正しさがあります。わたしたちが報酬について考えるとき、この神の御前に正しくあるということが大切です。なぜならこのお方こそ祝福の源だからです。今日の箇所での祝福とは、冒頭も申しましたとおり財産のことです。ですから神の御前に正しくあるとき、わたしたちの心だけでなく報酬や利益、そして生活をも満たされていくのです。法の穴をついて他者から搾取することにではなく、分かち合うことにこそ神の御心があります。これは何も報酬を要求することなく、与えることだけに終始せよということではありません。搾取される現実があるならば、正当な報酬を得るために戦うことは必要です。ヤコブも37節以降において、ラバンと戦うことになります。けれどもそれが中心ではありません。いかに神の御心にそって分かち合うかです。ここに、わたしたちが求めるべき神の正しさの中心があります。この正しさを求める者どうしならば、報酬のために戦う必要などないのです。互いの必要は、与えあうことによっておのずと満たされていくはずだからです。そこに主の祝福は満たされていきます。

 

 残念ながらわたしたちが遣わされていく社会には、神の正しさとはかけ離れた現実があります。だからこそまずわたしたちが、この教会の交わりにおいて神の正しさを求める者でありましょう。「交わり」と訳されるコイノニアも、もともと分かち合い共有することを意味する言葉です。自らの必要を得ることではなく、相手の必要を与えることを求める。そこにこそ、まことの主の祝福が与えられるのです。