2023年7月16日礼拝説教「キリストと共に」

聖書箇所:テモテへの手紙二2章8~13節

キリストと共に

 

 先週は、キリスト者として生きることの労苦と報酬について学びました。キリスト者には、この上ない報酬が用意をされています。それでもキリスト者の歩みに労苦や苦しみがあります。このことについて、しばしばわたしたちは戸惑います。わたしたちが仕えるキリストは天に昇られ、世界を治めておられます。ならば、このお方に従うわたしたちは、苦しむことなく連戦連勝となりそうなものです。仮にそれが正しいならば、キリスト者になった瞬間からわたしたちの人生は何の苦労も苦しみもなく、一切の物事がうまく回り始めるでしょう。けれどもパウロが宣べ伝える福音は、そのようなものではありません。それどころかキリストに従うがゆえに、かえって受けなければならない苦しみがあるのます。天から世を治めておられる方を王としているにもかかわらず、なぜキリスト者に苦難があるのでしょうか。この一端が、今日の箇所において明らかにされていきます。

 8節でパウロは、彼の語る福音をテモテに思い起こさせます。この福音は、テモテが望みをおく福音でもあります。パウロは喜びの知らせである福音の中身を、8節後半で書いています。この方(すなわちキリスト)が、ダビデの子孫としてお生まれになり、死者の中から復活された。これが、パウロの宣べ伝える福音の内容です。キリストがダビデの子孫としてお生まれになったことの意味は、キリストが旧約聖書で約束された救い主であるということです。旧約聖書で約束された救い主は、苦しみの中にある民を、自らが苦しみを受けることによって救い出すお方です(イザヤ書53章など)。その結果として、キリストが十字架の苦しみを受けられ、死に勝利し復活されました。この説明のなかで、「苦しみ」という言葉が幾度も登場します。パウロの語る福音とは、苦しみのなかで行われ、苦しみのなかで実現していくものなのです。キリストの十字架と復活の福音は、苦しみと共にある福音です。パウロは苦しみと共にあるこの福音に仕えるがゆえに、これまで苦しみを受けてきました。そしてついに犯罪者のように鎖につながれるにいたります。今、彼は、大変な苦しみのなかにあります。だからこそ、かえって福音の進展に望みを置くことができるのです。彼自身は鎖につながれ拘束されていたとしても、苦しみのなかで実現する福音は決してつながれてはいません。それどころか、パウロが鎖につながれ苦しんでいるからこそ、福音が力を発揮する環境が整っているとすら言うことができます。だからこそパウロはこのような状況にあってもなお、選ばれた人々のためにあらゆることを耐え忍ぶのです。

 ここで少々唐突に「選ばれた人々」が登場します。選ばれた人々とは、神が救いに選ばれた人々です。そこにはすでに救われた人々だけでなく、これから救いに導かれる人々も含まれるでしょう。この選ばれた人々も、キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得ること。ここにパウロが苦しみを耐え忍ぶ理由があります。ここでパウロが、彼ら「も」と書いています。つまり彼は、自身はすでにキリスト・イエスによる救いを与っていることを前提とし、神に選ばれた人々の救いのために苦しむのです。そして直接は書いていませんが、同じ福音のために働くテモテもまた苦しみを耐え忍んでほしいとパウロは願っていたはずです。キリスト者の受ける苦しみは、自分のためではなく誰か救いの恵みに与るためのものです。この点は、キリストの十字架がまさに当てはまります。キリストは罪なき神の御子ですから、ご自分のために苦しむ必要などありません。それでもあえて、我々罪人のために苦しみを受けられました。その中でこそ、救いの恵みが力をもって露わにされたのです。同様に、現代のキリスト者である我々もまた、神に選ばれた誰かが救われるための苦しみへと召されています。

 ここまでのことの証明としてパウロは、11節以降の言葉を引用して書いています。これは、当時の賛美歌の歌詞であったと考えられています。パウロはそれを、テモテの置かれた状況を踏まえて引用しています。11節にある最初の2行は、洗礼と結びついています。テモテは洗礼を受けたことでキリスト共に死にました。こうして今や、彼がキリストと共に生きる者とされています。12節前半の2行では、「耐え忍ぶなら、キリスト共に支配するようになる」とあります。テモテは福音を拒む反対者たちと対峙していました。この苦しみを忍ぶことが、やがてキリストと共に支配することへとつながるのです。続く12節後半は、脅しのための記載ではなく、テモテの反対者たちの現状と行く末を示すものです。ここで否むとは、意図的に拒むことです。反対者たちは、キリストの十字架の恵みを意図的に拒みました。それゆえにそのような者たちを、キリストも否まれます。続く13節は、それまでの流れとは異なります。キリストに従いたくても従い得ない我々人間の現実が取りあげられています。わたしたちが苦しみの中にあるとき、神の御前に誠実たりえない自らの姿が露わになります。しかしそれを超えて、キリストは常に真実であられます。ここでの真実とは、神の約束に対する真実さであり誠実さです。罪に苦しむ神の民を、約束に従って救い出してくださる。キリストは、この神の約束を否むことなどできないのです。

 

 神の約束に対して常に真実であられるキリストこそ、苦しみのなかにあるキリスト者の希望であり慰めです。わたしたちがどれほど弱く不誠実な者であろうとも、神は苦しみの中にある民を恵みによって必ず救い出してくださいます。この苦しみの中においてこそ、主イエスキリストの十字架と復活の福音は、人を救う力を発揮します。ここにこそ、キリストに従う者の労苦と苦しみの意味があるのです。