2023年7月2日礼拝説教「囚人の励まし」

聖書箇所:テモテへの手紙二1章15~18節

囚人の励まし

 

 この手紙を書いたパウロは、ローマで囚人とされていました。使徒である彼は、この状況に全く動じなかったのでしょうか。それならば、今日の箇所で自分を離れ去った人々の名前を挙げたり、オネシフォロの支えをこれほど喜んだりすることはなかったでしょう。彼は囚人とされたことにより恥ずかしい思いをし、不安と苦しみのなかにあったはずです。そのような弱さのなかに、彼は置かれていました。神の働きは、逆境をものともしない立派な信仰者によって現れるのではありません。逆境により弱くされた人々が、それでも励まされ支えられるところに神の働きは現れます。囚人であるパウロはいま、究極の弱さの中にあります。このパウロを励まし支える神の働きは、どのような人のどのような行動によってなされたのでしょうか。それを今日の箇所から学んでまいりましょう。

 本日の箇所では、15節のアジア州の人々と、16節以降のオネシフォロが対比されています。結論を言ってしまえば、オネシフォロをとおして神の働きがなされました。15節のアジア州の人々をとおしては、神の働きはなされませんでした。両者の違いがどこにあったのでしょうか。まずはオネシフォロの行動から見てみましょう。彼の行動は16節後半から17節にかけて記されています。彼は非常に行動的かつ熱心でした。パウロを探しにローマに旅をし、熱心にパウロを探し続け、繰り返し励まし続けました。この励ましは精神的な面だけでなく、食事のサポートなど肉体的な面にも及んでいたと言われています。18節によれば、この人はもともとエフェソの人で、その町にいたときから熱心にパウロに仕える人だったようです。ですからオネシフォロは、この時だけ特別にパウロを支えたのではありません。これが彼の生き方でした。主にある兄弟姉妹が弱さの中にあるならば、首を突っ込んで行動せずにはいられない。それがオネシフォロという人でした。

 そのような彼と対比されている15節のアジア州の人々を見てみましょう。「アジア州の人は皆」とは、アジア州の人々は例外なく全員、という意味ではありません。エフェソがアジア州にあり、テモテもオネシフォロもアジア州の人だからです。「アジア州の人は皆」とパウロが書くのは、誇張表現だと考えられます。ただしこの誇張表現が成立するほどに、パウロから離れ去った人々の数が少なくなかったことが伺えます。その代表例として、フィゲロとヘルモゲネスが挙げられています。二人がどのような人かはよく分かりませんけれども、教会内でよく知られていた有力者であったのでしょう。その彼らが、パウロから離れ去ってしまいました。彼らについて、「福音から離れ去った」とは書かれていません。彼らは聖書を信じ、主イエスを救い主と信じる人々です。それにも関わらず、パウロからは離れ去りました。パウロが囚人であり、関わると自らに面倒ごとがふりかかるからです。面倒ごとには関わらない。それが、アジア州の多くのキリスト者たちのスタンスでした。それが、弱さの中にあるパウロを苦しめました。弱さの中にある人を支え励ます神の働きに、彼らは明らかに反していました。この行動は、福音を捨てた人々によってなされたのではありません。彼らは、神を信じ、キリストを信じ、礼拝に与っていた人々です。しかしいざパウロが弱さのなかに置かれたときに、無関心を決め込んだのです。ここに、問題の根深さがあります。彼らは、ここに集うわたしたちと同じように信仰生活を送っていたのです。にもかかわらず、弱さのなかにある兄弟姉妹を愛することには無関心でした。面倒ごとには関わろうとしませんでした。この態度が、弱さの中にあるパウロを支えるどころか、かえって苦しめたのです。

 皆さん、ぜひパウロの立場になって考えてみてください。自らが囚人となり、今こそ兄弟姉妹の励ましが必要な状況です。そのような状況で教会の誰かに助けを求めたときに、「ああ大変ですね、お祈りしていますね」という言葉だけを残してサーと離れて行かれたらどうでしょうか。そのようなところから、神の愛を感じることはできないでありましょう。これがパウロから離れ去った人々の姿です。それに対してオネシフォロは、弱さのなかにある人の面倒ごとに首を突っ込まずにはいられません。パウロの身に降りかかった面倒ごとを、彼は共に担おうとしました。彼のこの行動をとおして、神の働きはなされたのです。普通なら避けたくなるような面倒ごとを、それでも共に担おうと熱心に行動してくれる。その姿が弱さのなかにある人々を支え、力づけるのです。思えば主イエスの十字架もまた、わたしたちの罪という面倒ごとに神が首を突っ込んでくださった結果なのです。神は、わたしたち人間の弱さと罪に、あえて首を突っ込まれました。オネシフォロがパウロを探してローマへ旅して熱心に彼を探したように、主イエスはわたしたちを探し求めて地上に降られ、わたしたちの罪と弱さを担って十字架にかかられました。このキリストの歩みは、面倒ごとだらけです。キリストのこの歩みこそが、わたしたちの弱さを共にしてくだる神の愛なのです。

 

 弱さの中にある人々を前にして、首をつっこまずにはいられない。面倒ごとを引き受けて、弱さを共にしないではいられない。わたしたちの信じる神とは、そのようなお方です。このお方の愛は、口先だけ「わたしはお前を愛する」と言うだけでは終わりません。行動を伴わざるを得ない愛です。このお方の愛によって、弱さのなかにあるわたしたちが支えられ力づけられ続けています。罪と弱さに、そして面倒ごとに首を突っ込まれるキリストの十字架の愛に、わたしたちは救われました。わたしたちもまた、各々の罪や弱さを突き放して離れ去るのではなく、熱心に担い合う教会であろうではありませんか。そこにこそ、弱さの中に働かれる神の愛が現れるのです。