2023年6月18日礼拝説教「神の計画と恵みによって」

聖書箇所:テモテへの手紙二1章8~14節

神の計画と恵みによって

 

 パウロは主を証ししていたがゆえに囚人とされました。主に従うがゆえに苦難を受けるのは、今も昔も変わらないことです。その事実をどう理解すべきかが、今日の御言葉に示されています。パウロは、自身が苦難を受けていることを、自らの信仰の証として誇る意図は全くありません。大切なことは苦難を受けることではなく、主に従うことです。多くの苦難を受けることが正義であるかのような考え方からは、まずは徹底的に離れる必要があります。

 この前提に立ったうえで、パウロが囚人とされていることの意味を考えたいのです。普通に考えれば囚人は恥ずべき存在です。しかしパウロは、自身が囚人であることを恥じてはならないとテモテに書いています。それは事実上、彼がローマ帝国の囚人ではなく主の囚人だからです。彼は自らの意志と関係なく囚人とされたのではありません。主を証しすることをやめれば、彼は釈放してもらえる機会が幾度もありました。それでも主を証しし続けた結果、彼は囚人とされています。ですから実際にパウロを拘束しているのは、牢獄ではなく主なる神の意志なのです。それゆえ彼は、自らを「主の囚人」と呼んでいます。このように、彼が拘束されているのは福音を告げ知らせるべく彼を召した主の意志によります。主のご意思に従う彼を、主に従う教会が恥じてはならないのです。

 パウロは、むしろ共に苦しみを忍んでほしいと書いています。この苦しみとは、主のご意思に従うことに伴う苦しみです。テモテもエフェソ教会の牧師として、主に従うことに伴う苦しみのなかにありました。そのようななかで、共に働くパウロが囚人となり、今にも殺されそうな状況です。共に神に従う仲間も、自らも、今や風前の灯火です。今自分の受けている苦しみは、無駄なことではないか。テモテはそう不安に思ったはずです。人間誰しも、無駄なことのために苦しみに耐えることはできません。そしてテモテは、理性的に考えれば神に従う者が世の中から消え、働きが無に帰す結末しか見えない状況に置かれていました。しかしパウロはなお、共に苦しみを忍ぶようにと書きます。それは彼らの働きが、無駄な努力にはならないからです。その根拠が9節です。彼らをこの働きへと呼び出してくださったのは神です。そして神が彼らを召された根拠は、どこまでも神ご自身の計画と恵みにあります。神の御意思がこの世において頓挫することなどあり得ません。それゆえに主に従うパウロとテモテの苦しみが、無に帰すこともあり得ません。同じことが、キリスト者として召されたわたしたちにも言えます。神に従うがゆえにわたしたちが苦難に耐えなければならないときがあるとしても、それは決して無駄になることはありません。ただし、無駄にならないのは神に従うがゆえに受ける苦難です。神のご計画と恵みを外したところでいくら努力しても無意味です。だからこそ大切なことは、神のご計画と恵みがどのように現わされたかを知ることです。神のご計画と恵みとは、キリスト・イエスにおいて与えられたものであり、この方の出現によって明らかにされたものです(9,10節)。キリストを抜きにしては、神のご計画も恵みもありません。このお方は死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました(10節後半)。これは明らかに、キリストの十字架の死と復活の御業です。これが神のご計画と恵みの中心にあることです。それを告げる喜びの知らせが、福音です。この福音を伝えるために、パウロは宣教者、使徒、教師に任命されました。テモテもまた、この福音を伝えるために牧師とされました。彼らが召されたのは、キリストにおいて不滅の命が与えられたことを伝えるための働きです。不滅の命を伝える働きが、滅ぼされるはずがありません。だからこそ、この働きのための苦しみは無に帰すこともありません。

 この恵みを受けたわたしたちは、何をすべきでしょうか。福音を伝えるがために受ける苦しみを恥としないことです。パウロ自身も「それを恥じていません」とわざわざ書いています(12節)。彼がそう書く理由は、教会の中ですら福音を伝えるために受ける苦難を恥じる思いがあったからです。なぜなら福音が力なく見えるからです。パウロは囚人となり、テモテは反対にあい、力を落としています。福音のために働く人々が弱くされるとき、福音に力はないのではないかと不安になります。しかしパウロは、それを恥としません。なぜなら彼は、自分が信頼している方を知っているからです(12節)。しかもそのお方は、かの日まで守ることがおできになる方だからです。キリストの十字架と復活の御業により、神はその力をお示しくださいました。パウロを遣わし、テモテを遣わし、そしてわたしたちをも遣わされる神は、御力をもって確かに成し遂げてくださるお方です。だからこそ、この神に遣わされた者の働きと労苦が、無駄に終わることなどありえません。

 

 この確かな確信をもとに、我々は神に遣わされた者として神に仕えるのです。そのためには、まずは健全な言葉を手本とすることです。キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛に基づき、かつキリストから使徒たち、そして教会へと聞かれてきた言葉に基づく教えこそ健全な言葉です。このゆだねられている良いものを守れとパウロは命じます。わたしたちはそれを、自分の力ではなく、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守るのです。だからといって、わたしたちの努力が不要なのではありません。わたしたちの内に聖霊が働いてくださるからこそ、ゆだねられている良いものがどれほどの危機にさらされようとも、決して無に帰すことはないのです。神に従うパウロやテモテは、神に仕えれば仕えるほど苦しみました。そのような困難や弱さの中にある歩みにおいてこそ、ご計画と恵みが明らかにされる神の御業が示されていくのです。