2023年6月11日礼拝説教「力と愛と思慮分別の霊」

聖書箇所:テモテへの手紙二1章3~7節

力と愛と思慮分別の霊

 

 今日の箇所のなかでも特に4節にいて、死を前にしたパウロのテモテに対する親しい思いがこめられています。ここでの涙とは、おそらくパウロとテモテが最後に別れた際に流された涙でありましょう。これが今生の別れになるかもしれない。その思いの中で、テモテはパウロとの別れの際に涙を流したのです。だからこそ再び会うことがかなうならば、このうえない喜びなのです。その喜びで満たされたいと、パウロは切に願っています。そう願うほどに、離れていてもなお二人は親しくつながっています。この親しさの中で、パウロは昼も夜も祈りの中で絶えずテモテを思い起こしています。

 親しさを込めたこれらの言葉に織り込まれるように、パウロは親しい関係を結んでくださった神について記しています。それは3節後半によれば、先祖に倣い清い良心を持ってパウロが仕えている神です。同じ神にテモテも仕えています。そして同じ神に、旧約時代の先祖たちもまた仕えてきたのです。そこには天地を創造され旧約時代を導かれてきた神の御計画と御業があります。この神の働きの結果として、パウロとテモテの親しい関係があるのです。このような歴史の話をしますと、どうしても今の自分との関係は感じにくい面があります。アダムとエバが堕落したとか、イスラエルの民が偶像崇拝したために侵略されたとか言われても、今のわたしと何の関係があるのか。そう思うのが、普通の感覚ではないかと思うのです。ここで大切なことは、歴史の中で働かれてきた神と同じ神が、今も働かれているということです。テモテは、祖母ロイスと母エウニケからの信仰継承という形で、この神の働きを具体的に体験しています。この信仰継承の結果として、パウロとの親しい関係をも与えられています。個人的な出来事もまた、歴史を導かれた神の働きの結果なのです。これはわたしたちにも当てはまります。わたしたちもそれぞれに、誰かから聖書のことを教えてもらい、信仰を受け継いでキリスト者とされました。その信仰は旧約時代に神に仕えた先祖につながっています。そしてその背後には、天地創造のときより歴史を導かれてきた神の確かな働きがあるのです。

 それゆえに、昔も今も確かに働かれる神の賜物に目を留め、それを再び燃えたたせるようにとパウロはテモテに勧めます。テモテに与えられた賜物とは、牧師としての賜物です。パウロがテモテに手をおいたこと、すなわち按手は、テモテにその賜物が確かに与えられていることの客観的な証拠です。 テモテは牧師として働く中で、自らの賜物に自信を持つことができない状況におかれていました。教会内での様々な問題への対応に苦慮し、うまくいかないことも多かったことでしょう。自分にはこの働きは務まらない、賜物が与えられていないのではないかと、テモテは不安に思ったはずです。そんな彼にパウロは、自分の能力ではなく神から与えられた賜物に信頼するように勧めるのです。それは長い歴史を導かれてきた神が与えてくださった賜物です。それゆえに信頼できるのです。

 この賜物をパウロは「霊」として語っています(7節)。すなわち聖霊です。その霊は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊です。ここであえておくびょうの霊について考えてみましょう。「おくびょう」という言葉は、恐れや怠惰を指す言葉です。行動を抑制し、なすべきことをためらわせる霊です。同時にこの霊は、力と愛と思慮分別の霊と対立する霊として語られています。つまり力のない、愛を欠いた、思慮分別のない行動をさせる霊でもあります。特に思慮分別のなさというのは、第一テモテにおいてパウロの反対者たちに関係する言葉でもあります。この人々は、自分をよく見せようと一所懸命でした。これも一種のおくびょうの現れです。自分で自分をよく見せなければ、立っていられないからです。そのようなおくびょうの霊とは反対の、力と愛と思慮分別の霊がテモテに与えられています。それは自分のことは度外視にしても、誰かを立たせようと行動を起こさせる霊です。その行動の最たるものが、キリストの十字架です。ご自身のことはいとわず、罪のなかで倒れ伏すわたしたちを立たせるために、キリストは十字架にかかられました。それゆえこの恵みをいただいた者は、もはや自分の力で自分をよく見せる必要はないのです。今度は誰かが十字架の恵みによって立つことができるように行動を起こすのです。そうすることができる霊を、神はテモテにくださったのです。

 

 天地創造から続く確かな神の御計画に基づいて、わたしたちにも同じ霊が与えられています。わたしたちが誰かから信仰を受け継いだことによって、洗礼を受けたことによって、兄弟姉妹との親しい関係に結ばれたことによって。このような個人的な出来事をとおして、歴史を導かれてきた神は確かにわたしたちにも力と愛と思慮分別の霊を与えてくださっています。この霊は、わたしたちに行動を促す霊です。この霊は、罪の中で倒れ伏す誰かが主の十字架の恵みに立つことができるように、わたしたちに行動を促します。様々な重荷のゆえに立ち止まらざるを得ない誰かがキリストの十字架へと歩めるように、わたしたちに行動を起こさせます。与えられた賜物はそれぞれですから、促される行動もさまざまです。しかしいずれにしても、それは恐れや怠惰の中で行動を止めさせる霊ではありません。また、自分自身のために、自分をよく見せようとする霊でもありません。わたしたちの周りにいる誰かを力づけ、キリストの十字架の愛に立たせるために行動を起こさせる霊です。そのために、これまでしてこなかった新たな行動へとわたしたちを促す霊です。この霊に押し出されて誰かを立たせるための一歩を、この礼拝の場から共に踏み出していこうではありませんか。