2023年6月4日礼拝説教「恵み、憐み、平和」

聖書箇所:テモテへの手紙二1章1~2節

恵み、憐み、平和

 

 本日からテモテへの手紙二(以下、第二テモテ)に入ってまいります。使徒パウロからエフェソ教会の牧師をしていたテモテに宛てて書かれた手紙です。テモテに対する個人的な思い、反抗する人々に対する個人名を挙げての非難、そして個人的なお願いなどが、この手紙で記されています。こういった内容は、個人的な親しさがないと書けません。この点に、第二テモテの特徴があります。2節の「愛する子テモテ」という呼びかけにも、個人的な親しさが表れています。二人の関係は、親子関係にも通じるところがあります。それほどまでの親しさで、パウロとテモテは結ばれています。教会の交わりにおいて、このような個人的な親しさが重要な役割を持つ側面があります。礼拝前後には個人的な交わりを持ちますし、土曜日の礼拝準備をしながら個人的な話をします。教会以外の場所でも個人的なつながりを持つこともあります。パウロとテモテの関係においても、そのような面がありました。彼らは一緒に宣教旅行し、長い時間を共有しています。そこでの労苦を共にした友人でもあります。この親しさに基づいて、第二テモテは記されています。

 この第二テモテの冒頭の挨拶の部分を、今日は見ていきます。パウロはこの手紙において、個人的な内容を中心に書こうとしています。その最初に、彼はまず使徒という自らの公の職務について触れています(1節)。なお「宣べ伝えるために」は新共同訳が採用する意訳です。教会共同訳では「命の約束に従って」と訳されています。ですからキリストイエスによって与えられる命の約束は、パウロが使徒として召された目的ではなく、根拠として理解する方がよいでしょう。神の御意思、そしてキリストにある命の約束を根拠に、パウロは使徒という大変重要な職務に任命されたのです。では神の御心とは、具体的に何を指すでしょうか。それは一テモテ1:12~17に記されています。パウロがそこで書いたのは、自らが誰よりも神に反抗していたこと、そのようなわたしを神は使徒に選ばれたことです。これが、パウロが使徒に召された際に示された神の御意思です。仮に従順な人や立派な信仰者を使徒として召すならば、人の意志でも可能です。しかしパウロはそうではありませんでした。それでもなお、パウロは神によって使徒に召されているのです。まさに彼は、自らの行いによってではなく神の御意思によって使徒に召されたのです。パウロが使徒に召された根拠として、キリストイエスによって与えられる命の約束も挙げられています。ここで意図されているのは「人の行いによって与えられる約束ではない」ということです。つまり人が頑張って神に仕えて、その報酬として与えられる約束ではありません。キリストによって与えられる恵みの約束です。パウロ自身が神に反抗する者であったわけですからなおのこと、この意味は明確です。自分の行いによってではなく、ただキリストイエスの恵みと神の御心によって、パウロは使徒という公の職務についています。こうして使徒という公の職務を帯びて、個人的な親しさに基づくこの手紙をパウロは書くのです。つまり教会においては、どれほど個人的な関係であっても神の召しという公の側面があるということです。それは長い付き合いや、個人的な親しさを超えた関係なのです。

 2節でパウロは、「愛する子テモテへ」と親しく呼びかけています。この呼びかけも、個人的な親しさだけを強調する言葉ではありません。パウロは一テモテ1:2で「信仰によるまことの子、テモテへ」と呼びかけています。パウロが「子よ」と呼びかけるとき、それは信仰を共にする関係なのです。これはまさに、教会の交わりに結ばれた公の関係です。これは決して、パウロとテモテだけで閉じるような関係ではありません。個人的な親しさに基づく手紙を書くときであっても、その土台には神、キリスト、教会に基づく公の結びつきがあるのです。この公の関係に基づく親しさの中で、パウロは神にある恵み、憐み、平和がテモテにあるようにと願い求めています。

 

 ここに集められたわたしたちもまた同じ信仰で結ばれ、教会の交わりに入れられた関係です。その意味では、パウロとテモテの関係と共通しています。教会の関係において、個人的な親しさもまた重要な役割を持つことはすでに述べました。しかしそのような関係においても、それは個々人の人間関係だけで成り立つプライベートなものではありません。その関係の土台には神の御意志があり、キリストによって与えられた命の約束があります。もし個人的に親しいだけの関係ならば、その土台にあるのはそれまで共にしてきた時間や、互いに相手のために何をなしてきたかです。つまり人間であるわたしと相手が何をしたかが、関係の土台なのです。兄弟姉妹の交わりにおいても、これまで互いにどう接してきたかが親しさを左右する面があるのは事実です。けれどもそれが、わたしたちの関係の土台なのではありません。わたしたちの関係の土台にあるのは、どこまでも神がなしてくださったこと、特にキリストが罪人のわたしたちのために成し遂げてくださった十字架です。兄弟姉妹の関係において、長い付き合いであるほどに、あるいは気のおけない間がらであるほどに、かえって神の御意思やキリストが忘れられてしまうことがあります。けれどもその関係の土台には、罪人であるわたしたちを愛してやまない神の御意志と、キリストの十字架によって与えられた命の約束があるのです。このことが目に見える形で示されるのが、このあとわたしたちが与る聖餐式です。ここに集うわたしたちの関係のすべての土台に、キリストの十字架があります。だからこそわたしたちは、父なる神と私たちの主キリストイエスからの恵み、憐み、平和を互いに願い合う関係の中に置かれています。神の恵みを根拠とした確かな関係で、わたしたちは結ばれています。この喜びのなかで、聖餐式に与ってまいりましょう。