2023年4月16日礼拝説教「足るを知る大切さ」

聖書箇所:テモテへの手紙一6章2b~10節

足るを知る大切さ

 

 冒頭にあります「これらのこと」とは、直前までの箇所で記されてきたことです。特に前回においては、奴隷と主人との関係が教えられました。通常ならば対立することが必然の奴隷と主人の関係が、キリストを信じることにより愛の関係へと導かれます。キリストの言葉こそ、平和の礎です。

 このパウロの教えを否定していた人々のことが、今日の箇所で改めて語られていきます。彼らは主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない人々でした。信心に基づく教えについては、3:16においてすでに要約が示されています。それに従わないということは、キリストに従わないということです。キリストに従うこととは別の目的をもって、人々に教えていたわけです。4~5節には、このような不健全な教えが人をどのようなところへと導くかが示されています。議論や口論に病みつきになる。これは教会内で一切の議論を禁じているのではありません。パウロが批判するのは、議論や口論で相手を言い負かすことが目的化することです。そのような人々の特徴は、高慢で、何も分からないことです。すなわち、「自らが知らない」という事実を理解していないことです。結局のところ彼らの目的は、相手に間違いを認めさせて自分の正しさを証明することにあります。相手の言葉を聞く気もなければ、何かを学んで自らの理解を変える気もありません。主の御言葉の深い理解を求めて議論するならば、それはとても大切なことです。けれどもそれが自分の正しさを示すことを目的としてなされるならば、そこからは、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのみです。冒頭に申しましたように、キリストの言葉は平和の礎です。この言葉に従わない教えや議論は、かえって平和を破壊します。

 5節後半を見ますと、このようなことは精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものだと記されています。新改訳聖書では「精神」ではなく「知性」と訳されています。上述のとおり反対者たちの議論は、キリストの教えの知識を深めることではなく他者への批判を目的としています。知性的ではありません。そうなってしまう原因は、議論をとおして自らの正しさ、優秀さを示したいと望むところにあります。今も昔も、優秀だと目される指導者の許には、人もお金も集まるものです。その利得に、パウロの反対者たちの本当の目的があったようです。信心深く聞こえる言葉を口にしながら、彼らの目はキリストではなく、利得に向いていました。利得を得ることこそが、彼らの生きる目的になっていたのでした。

 それに対して信心は、満ち足りることを知る者にとっては大きな利得の道だとパウロは語ります(6節)。利得を求めるのではなく、キリストにあって満たされることを目的とする。そのような人々が、その信心によってかえって大きな利得を得ることになるのです。それゆえに、食べるものと着るものがあれば、我々は満足すべきです。生きるのに必要なもの以上に、多くを熱望することをパウロは戒めます。なぜなら、得ることが目的化するからです。こうして生きる目的が、キリストに従うことから何かを得ることに代わってしまうのです。その代表格が、金銭欲です。金持ちであることが、すなわち悪なのではありません。お金を得ることを、キリスト以上に重要な人生の目的とすることが問題なのです。その生き方の困難さを、パウロは9~10節で示しています。結局のところ問題の中心は、金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出てしまうことにあります。すなわち金銭欲によって、キリスト以外のところに生きる目的を置いてしまうのです。そう考えますと注意すべきは必ずしも金銭欲だけではありません。所有欲であっても名誉欲であっても、それによってキリスト以外のところに生きる目的を置いてしまうならば、同じ危険があります。結局それらを求めるために議論や口論がなされ、平和が壊れていくことになります。その結果、さまざまのひどい苦しみに突き刺されることになるのです。

 

 今日の箇所から、わたしたち人間にとっての幸いな道は何かを学びたいのです。宗教を語るとき、従わない場合の罰や祟りが語られることがあります。わたしたち自身もまた、神の罰を恐れ、自らが望まない出来事を避けるために、神に従ってはいないでしょうか。それは、不都合な出来事が起こらないことを、キリスト以上に人生の目的にしている姿ではないでしょうか。わたしたちの人生は、神の罰がくだって望まないことが起こるから不幸なのではありません。神から離れ、キリスト以外のところに人生の目的を置く生き方そのものが、苦痛と苦悩の道なのです。今日の箇所において、金銭欲を挙げながらパウロが警告しているのもまさにこの点です。だからこそパウロは、キリストに満足し、キリストと共に生きることを目的とする生き方を勧めるのです。満ち足りることを知る。それは、何も求めないことではなく、すべてを満たしてくださるキリストに求めることです。そしてキリストに求めることに、満足するということです。ここにこそ、わたしたちが本当に満足できる道があるのです。なぜならこのお方は、わたしたちが神と共に生きていくためのあらゆる必要を満たしてくださるお方だからです。キリストに従うことによって、得たいと願ったものが得られないことも、好ましくないことが起こることも、たくさんあります。それでもなお、そのようなことを超えて、いや、そういったことも用いられながら、満ち足りることができるのです。それがキリストを目的とし、キリストに満足しながら歩む道です。こうしてわたしたちは、自らが思い描く以上に満たされることができます。それこそ、わたしたちが人生において得ることのできる、この上なく大きな利得なのです。