聖書箇所:創世記29章14b~30節
守られない約束
兄のエサウをだましたヤコブは、無一文で放浪の旅をしなければなりませんでした。そんなヤコブを、伯父のラバンが親しい肉親として友好的に迎えました。この関係が、今日の箇所からは争いと悩みをもたらす関係へと変わっていきます。居心地の良かったはずの関係が、いつの間にか重荷となる。わたしたちの身にもしばしば起こりますし、教会においても同じことが起こりがちです。受洗した直後は、教会が喜びにあふれ居心地のよい場所であったはずです。しかしその喜びが、いつの間にか感じられなくなっていきます。それどころか、教会が悩みの種となることすらあります。そのなかでわたしたちは、神とどのように向き合う必要があるのでしょうか。そのことを、ひととき御言葉から教えられたいのです。
ヤコブとラバンの緊張関係の始まりは、15節です。ここでラバンはヤコブに、労働に対してどのような報酬が欲しいか問いかけます。ヤコブは、ラバンの二人の娘のうち妹のラケルと結婚することを望みます。そのためならば、七年間働くと提案したのでした。ラバンの二人の娘については、16~17節で説明されています。「レアは優しい目をしていた」とは、彼女が外見的な美貌を持っていなかったことを暗に示しています。それに対してラケルは、それを持っていました。持てる者と持たざる者の格差が、ここにはあります。事実ヤコブは、見た目の美しさを持ったラケルを報酬として望むのでした。ラバンはそれを了承しました。こうしてヤコブは、ラバンのもとで七年間働くこととなりました。
さて七年のときが過ぎ、ヤコブはいいなずけと結婚させてほしいとラバンに申し出ました。そこでラバンは土地の人たちを皆集め祝宴を開きました。しかし夜になると、ラケルではなくレアを妻としてヤコブのもとに連れていったのでした。当然ヤコブはラバンに抗議します(25節)。それに対してラバンも弁明します(26~27節)。ヤコブがこれ以上抗議しないことから、ラバンの弁明は当時の慣習から見ても妥当な内容であったようです。しかしラバンは婚礼の最中にはじめてそれを主張したわけですから、彼の約束に対する不誠実な態度もまた表れています。ヤコブからすれば、ラバンにだまされた形です。しかしヤコブもまた父や兄をだまして神の約束を奪い取った過去があります。ヤコブにとってこの出来事は、自らの不誠実さのしっぺ返しでもあります。最終的にはレアと共にラケルも妻として迎えることができました。しかしヤコブは、思いもよらない形でもう七年間ラバンのもとで働かなければならなくなりました。
今日の箇所においては、約束に対するラバンの不誠実さが目に留まります。その根本にあるのは、相手からできるだけ多くの益を得ようとする貪欲です。ヤコブにしてみれば、当初の約束に含まれていない労働をしなければならなくなりました。しかしだまされたヤコブもまた、純粋な被害者ではありません。彼自身、人をだまして自らの利益を求めてきた人間です。また彼は、美貌を持たないレアよりも、それを持つラケルを愛しました。持てる者を優遇し、彼もまた多くの利益を得ようしました。この点では、ヤコブもラバンと同じです。より多くの利益を相手から引き出そうとする。この貪欲な態度から、ヤコブとラバンの対立は深まっていきます。この両者の貪欲が、今日の箇所では特に、約束に対する不誠実さという形で表れています。
この約束に対する不誠実さは、語られる言葉の軽さと言い換えることもできるでしょう。そのなかで時にだまし、時にだまされ、悩み苦しみながら生きている。それがわたしたち人間の姿です。ヤコブとラバンは、わたしの骨肉の者だと言えるほど親しい肉親です。本来であれば労働を提供して利益を求める関係ではないはずです。そこに労働と報酬という関係を持ち込むことで、だましあいが始まってしまったのです。利益を求めあい、傷つけあう。これはわたしたち人間の現実であり限界です。事実わたしたちは、この現実の中で働き、また生きています。だからこそわたしたちは、主なる神を求める必要があるのです。労働に対する報いではなくただ恵みを注いでくださる神が、そしてご自身の言葉、語られた約束を誠実に守られる神が、わたしたちには必要なのです。この神は、無一文のヤコブに約束を与え、それに従って恵みを与えられるお方です。ヤコブに対してだけではありません。すべての神の民に対して、神は一貫してこの態度を貫かれます。その最たる例が、キリストの十字架による罪の赦しです。罪を犯し神に逆らいながら生きることしかできないわたしたち人間のために、神はキリストをお与えくださいました。それによってわたしたちは、労働の対価ではなく恵みによって、罪の赦しと永遠の命という大きな報酬を得たのです。わたしたちが得た報酬は、まさに恵みです。
神からいただいたこの恵みを、わたしたちは神への労働の報酬に置き換えてはいないでしょうか。自分の力で神から報酬を得ようとするところにこそ、わたしたちの貪欲は現れます。その貪欲こそが、信仰生活の喜びを重荷へと変えてしまうのです。だからこそ今日改めて、キリストの十字架による神の恵みを取り戻したいのです。労働と報酬という関係を超え、神に逆らうことしかできないわたしたちをなおも愛すると神は約束してくださいました。わたしたちがどのようなものであろうとも、誠実に、神はこの約束を守り続けてくださいます。この恵みを受けたわたしたちもまた、労働と報酬という関係から解放されたいのです。ここに集められたわたしたちは、主にあって兄弟姉妹と呼び合う肉親です。利益を求めあう関係を超え、キリストの十字架による神の恵みを喜び合う関係へと導かれていこうではありませんか。