2023年3月5日礼拝説教「御言葉のための労苦と報酬」

聖書箇所:テモテへの手紙一5章17~25節

御言葉のための労苦と報酬

 

 教会役員という存在は、微妙なバランスの上に成り立っています。役員であるか否かは、霊的な意味での優劣を意味しません。このことは教会規程にも明記されています。その一方で役員は、教会において指導的な立場に立ちます。この危うい緊張関係の上に成り立っているのが、教会役員です。では神は、役員という存在をとおして教会全体をどのように導こうとされているのでしょうか。それを今日の御言葉から学びたいと願っています。

 今日の箇所で取り上げられているのは、教会役員のなかでもよく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちです。これは現在で言うところの牧師を指します。彼らには、二倍の報酬を受けるにふさわしいと考えるべきだとパウロは教えています。彼ら自身は、多くの報酬を得るために働いたわけではありません。しかし教会がそれに甘えて、十分な報酬を与えないことがあったようです。それは聖書の御言葉に反することです。その根拠として、パウロは二つの御言葉を挙げています(18節)。これらは申命記25:4とルカ10:7からの引用です。面白いのは、前者の申命記です。教会の長老たち、とりわけ御言葉を教える牧師が、家畜の牛と重ねられています。これもまた、役員や指導者たちの一面を示しています。教会の指導者たちは、教会から期待された働きに従事しているに過ぎません。教会の招聘状に従って牧師の働きをなすわたしも同様です。だからこそその働きの実りに対して、教会が報酬で報いることは当然です。これは牧師に限らず、教会のために労苦する奉仕者たち、とりわけ役員たちにも考慮されるべきことです。給与という形での報酬はなくとも、教会はその働きと実りに感謝し、彼らに十二分の尊敬が払われなければなりません。

 続く19節で、長老たちに配慮すべきもう一つのこととして、長老が訴えられたときの証人の数について挙げられています。これは長老に限らず、誰を告発する場合にも求められることです(マタイ18:16)。ただし長老の罪を告発する際には、特に厳格に守られる必要があります。

 このように御言葉のために特に労苦している長老たちは、特別な保護の内に置かれます。それゆえに罪を犯している者については、皆の前で厳しくとがめられます(20節)。ここでの「者」とは、長老を指しています。教会において特権を持つ立場だからこそ、犯された罪に対しての叱責は他の人々よりも厳しいものになります。それによって、他の者も恐れを抱くようになるためです。祝福も大きいが、罪を犯した際の叱責も厳しいのです。教会の指導的立場に立つ人々は、このような危うさのなかで働きをなすのです。

 この手紙の受け取り手であったテモテもまた、この危うい立場で働く指導者のひとりでした。そのテモテに向け、パウロは21節以降で厳かにいくつかのことを命じています。まずは、何事をするにもえこひいきをしないことです。次に、性急にだれにでも手を置くことをパウロは禁じています。手を置くとは、役員を任命する際の按手を指すでしょう。教会の指導的立場についた人が罪を犯しますと、本人も教会も大きな傷を負います。それ故に、按手はよく吟味したうえでなすべきです。続いて命じられているのは、他人の罪に加わらず、自身が潔白であり続けることです。その上でパウロはテモテに対し、水ばかり飲まず、ぶどう酒を少し用いることをも命じています。自らの体を気遣うことが指導者には求められます。22節の「潔白であること」は、決して禁欲を意味していません。御言葉を教え、指導する立場にあるからこそ、御言葉にしたがって自分の体をケアすることも大切です。

 そしてパウロは、この部分の結びとして24〜25節の言葉を記します。どのような罪であっても、いずれ明らかになる点では同じです。それは良い行いも同様だと、パウロは書いています。ここでの良い行いとは、道徳的に良い行いのことではありません。神の御心にかなった行いのことです。とりわけ教会の役員、教会の指導者とは、もっぱら教会のために中心となって良い行いをし続ける働きと言えます。その働きはすぐには報われず、認められないことも多いのです。しかしそれが隠れたままのことはありません。報いはあるのです。だからこそ、指導者として良い行いをなし続けることをパウロはテモテに対して願うのです。

 

 御言葉に従って真摯に神に仕え良い行いをするとき、その行いの実りに対する報酬は大きいのです。キリストは、御言葉のために働いた人々に報酬を豊かにお与えくださるお方だからです。それゆえにキリストの体なる教会もまた、教会内でなされた良い行いを認め、喜び、尊敬を与えることがふさわしいのです。わたしたちの信仰的実践が、失敗や怠慢を責めることに重きを置きすぎてはいないでしょうか。もちろん罪に対する指導は大切です。しかしそれは、一側面でしかありません。もし誰かが熱心に神に仕え、良い行いをし、その実りが得られたならば、教会全体でそれを喜びあうのです。そしてこの営みを中心的になすのが、教会に立てられている役員であり長老であり牧師なのです。皆さんは、教会に結ばれている兄弟姉妹が、とりわけ役員たちが、教会のためにどれほどの時間と労力を用いて奉仕をしておられるかご存知でしょうか。そしてそれらの働きによって、教会でどのような実を結んでいるかご存知でしょうか。それに報いてくださるのは、神でありキリストです。しかしわたしたちはキリストの体なる教会の枝です。キリストと同じように、教会でなされた良い行いの実りを共に喜び、労り、その実りを祝うことが当然でありましょう。その祝いが、神に仕える者にとっての何よりの報酬です。この報酬が十二分に与えられることによって、新たな良い行いを行う力がわたしたちに与えられていくのです。