2023年2月19日礼拝説教「神の家族としての教会」

聖書箇所:テモテへの手紙一 5章1~16節

神の家族としての教会

 

 教会の営みには様々な側面があります。その中心にあるのは、礼拝において御言葉に聞くことです。けれども御言葉は聞いて終わりではありません。御言葉に生きるということが、当然伴います。それは、共に教会に集う兄弟姉妹の間において中心に現れるものです。ですから兄弟姉妹の間でどのような関係を築くかが、教会を形作ることになります。それは御言葉に基づいて、問題があれば正し合い、不足があれば補い合い支え合う関係です。今日の御言葉はその指針を与えてくれます。

 教会の兄弟姉妹の関係についての基本的な考え方が1~2節で記されています。ここでは特に、兄弟姉妹に対して何か正すべきことが生じたときのことが取り上げられています。しかもその相手は、自分とは世代や性別が違うことが想定されています。その場合、伝え方には大変苦慮します。このようなときは、家族に接するように叱ることなく諭せ、とパウロは教えます。この「叱ることなく諭せ」との命令は、決して老人に物言うときだけに命じられているのではありません。その後に続くすべての言葉にもかかっています。世代や性別に関係なく、互いに叱ることなく諭し合うことが命じられています。教会において、一方的に叱って相手を論破するような正し方は好ましくありません。もし家族であったならば、たとえ一方的に議論で勝ったとしても、その後にわだかまりが残るでしょう。大切なことは諭すことです。諭すという言葉は励ましをも意味する言葉です。相手を正す場合であっても、相手を励まし建てあげる伝え方が大切です。

 3節からは、やもめについて命じられています。やもめは夫に先立たれた婦人で、当時の社会のなかで弱い立場にある人の代表格です。教会はその最初期から、そのような弱い立場に置かれた人々を積極的に支えました。なお、この箇所ではやもめについて記載されていますが、やもめに限定して理解すべきではありません。教会はやもめに限らず、困窮に陥ってしまった兄弟姉妹を支えることが求められています。しかし限られた力の中で、誰をどこまで支えるかは考えなければなりません。非常に悩ましい問題です。これに対するパウロの基本的な考え方が3節です。「身寄りのない」は意訳で、直訳すると「実際の」となります。見せかけではなく、実際に困窮している兄弟姉妹を大事にせよ、ということです。裏を返せば、助けを求めるやもめたちのなかには、教会が援助すべきでない人々もいたということです。少々冷たく聞こえるかもしれませんが、教会は兄弟姉妹を支えることにおいて、見極めが必要なのです。

 では教会が援助すべきでないやもめとは、どのような人々でしょうか。まずは4節に記されている、子や孫がいるやもめです。その場合は、これらの者に自分の家族を大切にし、親に恩返しすることを学ばせるべきです。なぜならそれが、神に喜ばれることだからです。6節で、放縦な生活をしている人々も挙げられています。このような人々は、生きていても死んでいるのと同然だとパウロは非難します。教会が安易に援助することで放縦な生活を続けさせるのは、本人たちにとって決して益にはなりません。また8節には、親族や家族が困窮していてもそれを助けない人々のことが触れられます。彼らは、信仰を捨てたことになり信者でない者にも劣っていると言われています。余裕がある生活をしながら困窮する家族を放置するのは、キリストの愛とは対局にある行為だからです。さらに、11節では年若いやもめが挙げられています。個々の事情が考慮されるべきでしょうが、傾向的に年若いやもめが陥りがちな問題があったことも確かです。それは情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがることです。これは特に未信者との結婚を求めて、信仰から離れていくことの問題が指摘されています。さらに怠け癖がつき、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだすと、厳しい内容が続きます。結果として、その生活が反対者に悪口の機会を与えてしまう。そうなれば本人の信仰だけでなく教会全体の信仰にも影響します。そのような人々を安易に援助して、信仰から離れていくやもめを後押しすることがあってはなりません。若いやもめが信仰者としてふさわしい生活を送らせるよう配慮することが、教会としては求められます。

 では教会が大切にすべき「実際のやもめ」とは、どのような人々でしょうか。実際に困窮しているやもめを大事にすることは、すでに述べました。しかし彼女らは、単に困窮していることだけではないようです。5節を見ますと、このようなやもめたちは神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けているとあります。また10節を見ますと、善い行いで評判の良い人を登録せよとパウロは命じています。この行いのゆえに、教会は登録されたやもめたちに多大な尊敬をはらっていました。教会もまた、援助していたやもめたちから信仰的な恵みを受けていたのです。

 

 この信仰的な恵みという点にこそ、教会に集う兄弟姉妹がどのように支え合うかの指針があると言えます。何よりも考えるべきことは、その兄弟姉妹の信仰が成長するためには何をすべきか、という点です。わたしたちが救われるのは、どこまでも主イエスキリストを信じる信仰だからです。どれほど物質的な困窮が満たされようとも、主の十字架により頼む信仰が建てあげられないならば、相手のためにはなりません。たとえ正しいことを主張したとしても、それによって兄弟姉妹の信仰を打ち崩すならば、それは主の御業ではありません。しかしもし兄弟姉妹の信仰が強められるならば、惜しみない援助をわたしたちはするのです。主イエスキリストへの信仰を互いに求めあうなかで、神の愛もまた教会のなかに実現していくのです。