2023年1月29日礼拝説教「罪赦された者として歩む」

聖書箇所:ルカによる福音書7章36~50節

罪赦された者として歩む

 

 本日は、年間標語聖句からの説教です。様々な準備を経て教会設立へと導かれるこの年に、教会を構成するキリスト者に着目してまいりたいのです。キリスト者とはどのような存在でしょうか。どのように歩むことを、主はキリスト者に望まれているのでしょうか。それを知ることが、キリスト者の集まりである教会の姿に迫ることになります。

 物語は、あるファリサイ派の人が主イエスを食事に誘うことから始まります。主イエスは彼の招きに応じ、食事の席に着きます。左肘をついて横になりながら食事をするのが、このとき主イエスが着いた食事の席でした。主イエスが食事の席に着かれたことを一人の罪深い女が知りました。彼女は、香油の入った石膏の壺をもって食卓に入ってきました。そこでこの人の行動が38節に記されています。これは女性自身にとっても、しようと思ってした行動ではありませんでした。主イエスの後ろに控えているとき、彼女は涙を流し、思いがけず主イエスの足を濡らしてしまいます。これではいけないということで自らの髪をほどき、主の足を拭います。そしてせめてもの行いとして、足に香油を塗って接吻したのでした。彼女はあふれる思いの中で、そうせざるを得なかったわけです。

 この様子を見たファリサイ派の人の反応が39節に記されています。彼は、罪深い女に対して嫌悪感を持ちつつも、彼女が食卓に入ることを止めませんでした。それは主イエスを試すためでした。主イエスは7:16で人々から「大預言者」と呼ばれています。それが本当かどうかを彼は知ろうとしました。そして彼が下した判断は、「主イエスは預言者にあらず」でありました。なぜなら主イエスは彼女が罪深い女であることに気づかず、自らに触れさせたように見えたからでした。その彼に対して、主イエスは語りかけられます(40節)。ここでファリサイ派の人の名前がシモンであることが分かります。シモンは「先生、おっしゃってください」と応えます。そこで主イエスは一つのたとえを語られます(41,42節)。一デナリオンはおよそ一万円と考えればよいでしょう。金貸しはそれを帳消しにします。現実にはなかなかありえない話ですが、旧約聖書の律法には借金帳消しについての言及があります(レビ25章)。このたとえを語られたうえで、主イエスはこの人に問いかけられます。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するか。ここで問われているのは、愛の問題です。借金が帳消しになった後に、借金を帳消しにしてもらった人と金貸しとの関係により深い愛の関係が結ばれるのは、どちらか。シモンは慎重に答えます。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います。」主イエスは「そのとおりだ」とお答えになります。そして主イエスは女の方を振り向きながら、シモンと女の行動を対比して語られます(44〜46節)。これは主への非礼に対するシモンへの叱責ではありません。ここで指摘されていることは、必ずしも常識的にしなければならないことではないからです。主イエスが彼に指摘しているのは、愛のなさです。それは、自らの基準によって周囲の人を値踏みするシモンの姿勢に表れています。彼は自らには罪がないかのような立場で、女に対して「罪深い女なのに」と評価しています(39節)。主イエスに対しても、この値踏みは向けられています。この人は預言者ではない、と。それに対して女はどうだったでしょうか。彼女は、自分が他者を値踏みするなど考えもしませんでした。自らの罪を深く自覚していたからです。その罪を前にして、彼女は必死でした。シモンの家に入ることで、彼女は人々からのさげすみにさらされたことでしょう。それでも彼女は、罪を赦すお方を前にして、香油を持って主イエスの足元に行かざるを得ませんでした。その結果、シモンがしようともしなかった常識外の行動を、彼女は主イエスにしたのでした。ここに彼女の愛があると、主イエスは言われています。しかし彼女の姿を見たシモンは、罪深い者による取るに足らない行動だと切り捨てました。そこにあるのは、罪の裁きです。赦しも愛もありません。このシモンと女の姿を踏まえ、主イエスは47節でたとえの意味を語られ、「あなたの罪は赦された」と彼女に言われました。その言葉を実現するために、主イエスはこの後十字架の死へと向かわれることになります。この主の十字架にこそ、相手のために何かをしないではいられない、という意味での神の愛があらわれています。罪の赦しが神の愛なのですから、彼女と主イエスの関係は互いに愛し合う関係にほかなりません。主イエスと罪人との相互の愛の交わりが、ここに成立したのです。

 この関係を結ばれた主イエスは、50節の言葉を女に言われます。ここで彼女の愛を、「あなたの信仰」と言われています。わたしたちを救う信仰とは、罪を赦してくださった方を愛することです。神への愛をとおして、神がわたしたちに惜しみない愛を注いでくださっていることが示されていくのです。このような、神との愛し愛される関係の中で、わたしたちはキリスト者として安心して世に出ていくのです。

 

 しかしときにわたしたちは、愛が冷えるときがあります。その原因は、自らが多くの罪を赦された者であるという、この一点を忘れてしまうからです。愛が冷えていたシモンを「この女を見ないか」という言葉によって主は、ご自身との愛し愛される関係に招いておられます。この招きに、わたしたちもまた応えてまいりたいのです。大切なことは、主が命を懸けて、愛のない私をなおも愛してくださったこの神の愛に、わたしたちが真剣に向き合うことです。そのときわたしたちは、主を愛せずにはいられないでありましょう。そうすれば神の愛はおのずと、わたしに、そしてこの教会に、あふれていくことになるでしょう。