2023年1月22日礼拝説教「神の言葉と祈りとによって」

聖書箇所:テモテへの手紙一4章1~5節

神の言葉と祈りとによって

 

 本日の箇所には教会に対する試練について述べられています。1節には「終わりの時には」とあります。主イエスが再び来られる再臨のときを意識した言葉です。主イエスがいつ再臨されるかわからない以上、主イエスが天に昇られたあとの時代はすべて「終わりの時」です。当然、現代を生きるわたしたちの時代も含まれています。それゆえここで語られている教会の試練は、わたしたちの教会も同じように経験するはずのものです。この試練の中で、教会は何と戦い、何を守るのでしょうか。そのことを今日、改めて認識をして確認してまいりましょう。

 前回の箇所でパウロは「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」と記しています。ここでいう真理の中心にあるのは、人としてお生まれになった主イエスの十字架の死と復活による救いです。この真理は、世において攻撃されます。主イエスの十字架と復活による救いなどには、希望はないとする主張がなされるのです。それこそが教会の敵です。教会は戦わなければなりません。真理がどのように攻撃されるかが、1節の後半に記されています。教会に集っている人々の中に、信仰から脱落するものがいる。ここでパウロが描き出す教会の敵は、教会の外ではなく中から起こります。信じていたはずの人々が、真理を攻撃する側に回ってしまうのです。それは教会に何か問題があるからではありません。いやむしろ、教会としてふさわしく歩めば歩むほど、信仰から脱落する人々も出るのです。

 このことが起こる過程が2節の初めに記されます。偽りを語る者たちとは、教会内の偽教師です。教会の教師である以上、聖書から教えたはずです。それにも関わらず、3章の最後に記されている教会の教えを否定し、真理(すなわちキリストの十字架と復活の事実)を攻撃するのです。この偽教師たちは、結婚を禁じたり、ある種の食べ物を断つことを命じたりしました。禁欲主義的な教えであることが分かります。聖書の命じる以上の厳しさを彼らは自らに課し、また兄弟姉妹に命じていました。ある宗教的な熱心を持って、彼らは禁欲を命じていました。神のためにあれもこれも我慢し、楽しむことも避けたわけです。一見すると、むしろ信心深く敬虔な信仰者に見えるでしょう。しかしそのような禁欲主義を命じる教えを、信仰からの脱落であり教会の敵としてパウロは描くのです。

 我慢や禁欲を信仰の尺度とするような教えの背景として、二つの理解を挙げることができます。一つは、肉体の軽視です。目に見えるものは下劣であり、目に見えないものこそ尊いという理解です。もう一つは、神のために我慢した人こそが救われる、という功績主義です。肉体の軽視と功績主義。どちらも宗教的にまじめで熱心な人々が陥りがちです。わたしたちもまた、まじめで熱心な人こそが報われるべきだという考え方に慣れています。しかしこれこそが、信仰からの脱落を招くのです。ここで言われている「信仰からの脱落」とは、妥協や不真面目さではではなく、神を厳しく理解しすぎることです。過度な禁欲や厳しさを求める肉体の軽視、そして我慢したものが偉いとする功績主義。これこそ信仰からの脱落であり、真理への攻撃なのです。なぜなら真理とは、キリストの肉体によってなされた十字架と復活による救いだからです。肉体の軽視とは、キリストの十字架の御業の否定です。禁欲主義や功績主義は、主の十字架と復活ではなく、人間の行為に救いの根拠を置くことです。だからこそ、それがいくら信仰的な熱心さを動機としたものであったとしても、教会は徹底的に戦わなければなりません。

 では教会に結ばれた者として、わたしたちはどのように歩むべきでしょうか。それが食物のことについて教えられるなかで示されていきます(3節b~4節)。ここには、神がお造りになったものはすべて良いものだという大前提があります(創世記1:31参照)。神が造られた「すべて」のなかには、当然のことながら食物も含まれています。大切なことは用い方です。食物は、一部のものを我慢して自らの信仰をアピールするためにあるのではありません。真理を認識した人たちが、感謝して食べるためにあります。その用途で食べるなら、何一つ捨てるものはないほどに良いものとして用いられるのです。この食物は、神の言葉と祈りとによって聖なるものとされます(5節)。わたしたちも、食前の祈りをします。この中心にあるのは、神への感謝です。神への感謝の源は、真理であるキリストの十字架と復活による救いです。神の言葉によって、わたしたちはそれを知ります。神の言葉こそが、神への感謝の祈りへとわたしたちを至らせます。

 神の言葉と、そこから出る神への感謝の祈りによって、わたしたちに与えられる食物は聖なるものとされます。聖なるものとは、神のために取り分けられたものという意味です。神の言葉と祈りとによって、わたしたちが日々食べる食物さえも、神のために用いられる素晴らしいものとなるのです。これは食物だけでなく、財産やあらゆる持ちものにも当てはまります。神は、キリストの十字架と復活によってわたしたちを救ってくださったお方です。この神が与えてくださったものだからこそ、神への感謝と共にわたしたちはそれを受け楽しむのです。そして神への感謝と共に受けるからこそ、神が望まれないような用い方をしないのです。

 

 真理を否定することとはすなわち、神から与えられたものを楽しむことを否定し、神の恵みを自らの禁欲や我慢による功績に置き換えてしまうことです。教会は、喜びと神への感謝を失わせるこのような教えと戦い続ける必要があります。教会は、喜びと神への感謝に留まり続けるのです。ここにこそ、わたしたちが生きるべき喜びと感謝に満ちた道が備えられています。