2022年12月25日クリスマス記念礼拝説教「真の指導者の誕生」

聖書箇所:マタイによる福音書2章1~12節

真の指導者の誕生

 

 クリスマスおめでとうございます。クリスマスの期間は、今や教会に限らず街中が楽しい雰囲気に包まれます。とは言いましても、すべての人がクリスマスを楽しい思いで過ごしているわけではないでしょう。コロナや戦争や災害など自らの置かれた状況の故に、クリスマスを楽しむことなどできない方々もいらっしゃいます。そのような人々にとっては、周囲の楽しい雰囲気がかえって辛く感じることもあるのです。では、そのような方々はクリスマスを喜ぶことなどできないのでしょうか。決してそんなことはありません。クリスマスを喜ぶ状況にない方に、実は本当の意味でのクリスマスの喜びが与えられていることもあるのです。反対に、クリスマスを楽しんでいる人々が、必ずしも本当の意味でクリスマスを楽しんでいないのかもしれません。本当の意味でのクリスマスの喜びを、共に見つめてまいりましょう。

 主イエスの誕生をお祝いするのがクリスマスです。クリスマスはその最初から、全員が楽しめるものではなかったようです。3節を見ますと、ヘロデ王とエルサレムの人々が不安を抱いています。この人々は、クリスマスを恐れています。そのきっかけとなったのは、遠く東方から占星術の学者たちがエルサレムにやってきたことでした。彼らは異教の国のエリートでした。そんな彼らがユダヤ人の王を拝むために、約1000キロもの旅路を経てエルサレムにやってきました。そして王が誕生される場所を、ヘロデ王に問うたのでした。彼らの目的は、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝むことです。ヘロデ王から見ますとそれは、自らの立場の危機を意味します。それゆえに彼は、この出来事を放置するわけにはいきませんでした。祭司長たちや律法学者たちに、メシアすなわち救い主が生まれる場所を聞いたのでした。王に呼ばれた彼らは6節で旧約聖書を引用し、救い主である指導者がベツレヘムに生まれることになっていると答えました。そこでヘロデ王はひそかに占星術の学者たちを呼び寄せます。わたしも拝むから見つかったら知らせてほしいと言って、彼らを送り出しました。しかしヘロデ王は、不安の種である幼子を、成長する前に殺すつもりでした。

 ヘロデ王に送り出された学者たちはベツレヘムに向かって旅を続けました。東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上にとまりました。彼らはその星を見て、喜びにあふれました。彼らはクリスマスを、あふれんばかりの思いで喜ぶことができたのでした。その喜びの中で彼らは幼子を拝み、黄金、乳香、没薬をささげました。黄金は王に対する贈り物、乳香は神に対する捧げ物、没薬は死者のために使う物です。これらをとおして、この方が王であり、神であり、やがて民のために死ぬことがすでに示されています。クリスマスに生まれた方を礼拝するという目的を果たした学者たちはその後、夢のお告げに従って別の道を通って帰りました。その結果、ヘロデ王の目的は果たされませんでした。クリスマスを喜ぶことのできなかったヘロデ王とエルサレムの人々は、その後も不安のなかで歩み続けなければなりませんでした。

 クリスマスに喜びあふれた学者たちと、不安を抱き続けたヘロデ王やエルサレムの人々。どちらも社会的地位を得ていたという点で共通しています。この両者を決定的に分けたのは、6節で語られた聖書の御言葉に対する態度でした。それを受け入れて救い主に会いに行った学者たちはクリスマスを喜び、ヘロデ王やエルサレムの人々はそれを拒否しました。しかし、もともと聖書に親しんでいたのはヘロデ王やエルサレムの人々の方でした。しかも救い主は、彼らの近くでお生まれになりました。エルサレムとベツレヘムの距離は、わずか10キロ強です。しかし彼らは、聖書に示された救い主を拒否しました。それは彼らが今得ている地位を守るためでした。それに対し占星術の学者たちは異教徒で、聖書に親しんでいたわけではありません。そんな彼らが1000キロもの距離を旅し、聖書に従ってお生まれになった救い主を受け入れ、拝みました。その結果、彼らは喜びにあふれたのでした。

 聖書に親しんでいたはずの人々がそれを拒否し、そこから遠く離れていた人々がそれに従って救い主を見出す。ここに、御言葉に対する逆転が起こっています。この逆転が起こった理由は、第一に占星術の学者たちが自らの状況に対する渇きに敏感であったことにあるでしょう。今の自分には、何かが足りない。自分の力では、どうしようもないことがある。その思いが、彼らに1000キロもの旅をさせたのです。そしてその渇きの解決を、聖書に従ってお生まれになった救い主に求めたのです。その結果、彼らにあふれんばかりのクリスマスの喜びが与えられました。それに対してヘロデ王やエルサレムの人々は、聖書に親しみつつも自らの渇きには鈍感でした。変化を望まず、今のままの自分に満足し、現状を守ろうとしました。その結果彼らは、聖書の御言葉によって自らが変えられることを拒否しました。その結果彼らは、自らが脅かされる不安の中を歩み続けることになったのです。

 

 改めて最初の問いに戻りましょう。本当の意味でのクリスマスの喜びは、誰に与えられるのでしょうか。それは、自らの持つ渇きに目を向けることのできる人です。どれだけ立派に見える人であっても、人にはそれぞれに渇きがあります。それに目を向けることのできる方にこそ、真のクリスマスの喜びが与えられます。この説教の始めに、とてもクリスマスを喜ぶことのできない状況にある人がいらっしゃるとお話ししました。そのような人にこそ、クリスマスの喜びは差し出されています。いま感じている渇きの解決を、ぜひともクリスマスにお生まれになった救い主に求めていただきたいのです。その先にこそ、溢れんばかりのクリスマスの喜びが与えられるのです。