2022年12月18日礼拝説教「イスラエルを治める者」

聖書箇所:マタイによる福音書2章4~6節、ミカ書5章1~5節

イスラエルを治める者

 

 主イエスはベツレヘムでお生まれになりました。そのことを当時の祭司長たちや律法学者たちは、預言者が書いた言葉として語っています(5~6節)。これは、ミカ書5章1節からの引用です。ミカ書には、指導者がベツレヘムで生まれることの意味が、より詳しく明かされています。ですから今日はミカ書の言葉から、ひととき御言葉に聞いてまいりましょう。

 まずはミカ書の預言の背景についてです。時代としては、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代です。先週のエレミヤ書と、ほぼ同じ時代です。アハズの時代に、アッシリアによって北イスラエルが消滅します。それは南ユダにとっても無関係ではありません。ただし、必ずしも常に苦しい状況にあったわけではありません。大国とうまく関係を結ぶことによって、ユダの国が発展した時期もありました。むしろそのような豊かさを享受するなかで、神の民の指導者たちが弱い者を搾取し、蓄財に走り、神から離れてしまいました。ミカ書では、このような人々への神の断罪の言葉が繰り返し語られます。いずれ神がこの国を滅ぼされ、神の民は散らされる。ミカはそう預言しています。実際にミカが預言した時代の約100年後、ユダも消滅します。そしてバビロン捕囚によって、神の民が散らされていくことになります。ただミカ書では、このような神の裁きとともに、神による救いもまた繰り返し示されます。本日読んでいただきましたのは、その部分です。

 神はどのように救いをもたらされるのでしょうか。それはユダの氏族のなかからイスラエルを治める者が出ることによってなされます(5:1)。王の誕生の予告です。ただし2節には、「まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。」とあります。つまり一度ユダの国は滅び、神の民は捨てられ散らされるのです。産婦が子を産むときの陣痛のような、大変苦しい時を過ごすことになります。しかし2節の後半で、状況は大きく好転します。「そのとき」とはイスラエルを治める者が立てられるときです。そのとき、各地に散らされ苦しんでいた残りの者が、イスラエルの子らのもとに、すなわち神の御許へと帰って来るのです。

 ここで預言されている王は、主の力、神である主の御名の威厳をもって集められた群れを養います。それゆえに民はどのような脅威をも恐れる必要はなく、安らかに住まうことができるのです。彼が持つ大きな力が4節から示されます。この王のゆえに、どれほど強い大国が攻めてきても我々は踏みにじられることはありません。彼が神の力と権威をふるうからです。5節を見ると、脅威をもたらす国としてアッシリアとニムロドという二つの国が挙げられています。アッシリアとは、圧倒的な力をもって北イスラエルを滅ぼした大国です。ニムロドとは、創世記10章に登場する伝説上の勇士です。ですからニムロドの国とは、実在しない伝説上の強国です。伝説上の勇士の国であったとしても、この王のもとに集うなら決して脅かされることはありません。それほどの圧倒的な力と権威を、この王はふるいます。そのような力ある王がユダ族から起こされることによって、神の民は集められ平和が与えられ救われるのです。

 これほどの力ある指導者が、エフラタのベツレヘムから生まれると1節で明かされています。エフラタとは、ベツレヘムに住んでいた氏族の名前です。小さい氏族であると言及されています。マタイ福音書ではベツレヘムが決していちばん小さいものではないと言われています。わざわざこのように言われているということは、一般的には小さいものだと思われていたということです。小さい。取るに足らない。そのような存在として、この指導者は誕生します。彼は神の力と権威をふるうほどの者ではありますが、人の評価するような立派さ、有能さとは違うところから起こされます。それはこの指導者自身が、人々から小さく、取るに足らない者と見られることを意味します。そしてこの指導者が、小さく取るに足らない人々にこそ目を向けられるお方であるということをも意味しています。だからこそ、国が滅ぼされて外国へと連れていかれた神の民は、なおもこの指導者の誕生に希望を持つことができたのです。自分自身が小さく、取るに足らないときにこそ、神は指導者を立ててくださるからです。そのようなお方として、主イエスキリストはベツレヘムでお生まれになられました。そのことを、クリスマスにおいてわたしたちは喜び祝うのです。

 

 今はアドベントで、クリスマスを待ち望むときです。バビロン捕囚のつらい状況のなかで神の民は、ベツレヘムで指導者が立てられるクリスマスを心待ちにしました。だからこそアドベントを過ごすわたしたちも、自らの置かれたこの地上における悲惨、不条理に目を向けたいのです。わたしたちはそれぞれに弱さがあり、欠けがあり、罪があります。それゆえの悲惨、苦しみ、痛みを、誰しもが抱えています。世の中に目を向ければ、わたしたちの周りの人々も同じような重荷を抱えています。その面でわたしたちもまた、バビロン捕囚の中にあった神の民と同じなのです。だからこそ、わたしたちにもベツレヘムでお生まれになる指導者が必要なのです。悲惨の中を歩むわたしたちのために、全能の神の力と権威をふるう王は生まれてくださいました。この方は、強くて立派で強固な信仰を保つことのできる人々のための王ではありません。小さいと言われていたベツレヘムにお生まれくださったこの方は、弱く、取るに足らず、そして罪深さのゆえに苦しむ人々のために来てくださったのです。この希望が、弱く小さいわたしたちに確かに与えられています。このことを覚えながら、クリスマスに向かうアドベントの最後の一週間を過ごしてまいろうではありませんか。