2022年12月11日礼拝説教「正義と恵みを行う王」

聖書箇所:マタイによる福音書2章1~3節、エレミヤ書23章1~6節

正義と恵みを行う王

 

 アドベントの主日におきましては、マタイ福音書にあるクリスマス物語の土台となっている旧約聖書の御言葉に聞いています。主イエスが誕生されたとき、占星術の学者たちがやってきました。彼らの目的は、ユダヤ人の王としてお生まれになった方に会うこと。そしてこの方を拝むこと、すなわちこの方を礼拝することでした。このお方を王として拝もうとしているのは異邦人である占星術の学者たちです。ですから、このお方はユダヤ人に限らずすべての人に与えられた真の王です。クリスマスにおけるこの王の誕生もまた、先週学んだインマヌエルと同様、旧約聖書において予告されていたことです。では旧約聖書において誕生が予告されていた王とは、どのような働きをなす王なのでしょうか。なぜ神は、この真の王を建てられたのでしょうか。そのことを今日は共に学んでまいりたいのです。

 旧約聖書において、神が立てられる真の王の誕生の予告の御言葉はいくつかあります。そのなかで今日はエレミヤ23:5を、前後の流れを含めて見てまいります。神はかつてダビデ王に対して、彼の子孫から永遠に国を治める王が出ると約束してくださいました。その王を指し示すキーワードが、23:5にある「若枝」という言葉です。この王は、正しい若枝と言われています。すなわち正義の王です。この王が、彼の治める国に正義と恵みの業を行います。このお方が王となることによって彼の治める国に救いがもたらされ、神の民イスラエルは安らかに住むのです(6節)。それゆえ彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれます。ここでの「救い」とは、通常は「正義」と訳される言葉です(新改訳聖書を参考のこと)。ですからこの王の働きの中心にあるのは、正義を行うことにあります。

 「正義を行う王」と聞いて思い浮かべるのは、規則や法を守り、民にも守らせる王、あるいは悪を見逃さず徹底的に裁く王といった、厳格で厳しいイメージの王ではないかと思います。しかしそれが、この箇所において神が語られている正義の中心ではありません。正義と恵みの業が意味するところは、少し前の22:3に記されています。搾取されている者を虐げる者の手から救うこと。弱い立場の人々を苦しめず、虐げないこと。無実の人の血を流さないこと。これが、神の語られる正義の中心にあることです。この正義を実現し、それに基づく恵みの業を行うのが、ダビデのために起こされる正しい若枝であるユダヤ人の王なのです。

 ではなぜ神は、ご自身で王を起こさねばならなかったのでしょうか。それは、神の民の牧者たちが悪を行っていたからです。彼らは神の民の指導者でありますから、誰よりもまず正義と恵みの業を行うべき人々です。そんな彼らが、神の御心に反して悪を行っていました。ここで言う悪とは、正義の反対の意味です。すなわち、弱い人々を搾取し、虐げ、苦しめ、無実の人の血を流すことです。それを、神の民を率いる牧者たちがしていたのです。世の中には、そのようなひどい指導者、あるいは偽善的な政治家がいる、と言いたいのではありません。わたしたち人間の誰もが、立派な善人を装いながら自らの悪を隠す者です。誰かを犠牲にし、弱い誰かを蹴落として生きることしかできないのが人間の姿です。この悲惨な支配を終わらせるために、神は正しい若枝である真の王を起こされると、この箇所において予告をされたのです。そしてその予告にしたがって、真の王である主イエスキリストはクリスマスにお生まれになられたのです。

 これを踏まえて、マタイ福音書に戻りましょう。占星術の学者たちは異邦人でありながら、主イエスが真の王としてお生まれになったと信じて旅をしました。このお方を礼拝しようと、わざわざやってきたのです。一方、それを聞いたヘロデ王とエルサレムの人々は、喜ぶどころか不安を覚えました。真の王がお生まれになると、正義を装ってひた隠しにしてきた自らの悪が明るみになるからです。クリスマスにお生まれになった真の王は、わたしたち人間がそれまで慣れ親しんできた生き方を揺るがすお方でもあられます。変化は誰にとっても恐ろしいものです。しかしクリスマスにお生まれになった真の王は、現状維持を是とするお方ではありません。それゆえクリスマスは、恐ろしい出来事でもあるのです。しかしその恐れを超えて、クリスマスにお生まれになった方を王として礼拝するとき、真の救いが与えられ、安らかに歩むことが許されるのです。キリストを王とし、このお方のお言葉にしたがって歩むとき、わたしたちもまた真の王であられるキリストの治められる国の一員となります。この国において、神の正義が実現します。弱い立場の人々は苦しめられず、虐げられることもありません。無実の人の血が流されることもありません。皆が互いに尊重しあい、愛し合い、神の民は安らかに住むのです。

 

 主イエス・キリストは、十字架にかかられることによってこの正義を打ち立てられました。わたしたちのような弱く、罪深く、誰かを足蹴にしてしか歩むことができない者をなおも愛し、赦し、わたしたちが安心して歩むことができるように、このお方は十字架にかかられたのです。ここにいる皆さんは、占星術の学者たちと同じようにそれぞれの場所から教会のこの礼拝にいらっしゃいました。ですからわたしたちは、もはや誰かを踏み台にして、自らの正義を装わなくてもよいのです。命が守られて、安らかに住むことができるのです。このように過ごすことのできる国が、クリスマスに真の王が誕生されることによって、わたしたちのところに来たのです。それがクリスマスの喜びです。この喜びのなかで、真の王なるキリストの民であるキリスト者として、歩みだそうではありませんか。