2022年11月6日礼拝説教「自らの身の飾り方」

聖書箇所:テモテへの手紙一2章8~15節

自らの身の飾り方

 

 聖書のなかには、容易には受け入れられない躓きを覚える言葉があります。その一つが、今日の箇所ではないかと思います。ある先入観をもって読んでしまうことに一つの原因があります。そういった背景をいったん取り払って、この御言葉に共に向き合ってまいりましょう。

 今日の箇所は、分量の違いはありますが男性と女性それぞれに命令が与えられています。パウロはまず男性に対して、8節で祈りを命じています。では、女性は祈らなくてよいのでしょうか。もちろんパウロがそんなことを考えていたはずはありません。男性が全体の傾向として持ちやすい性格や弱さを踏まえて、パウロは命じています。あくまで傾向の話ですから、8節が男性だけに与えられて女性には関係ない命令なのでは決してありません。女性もまた、怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈るべきです。そうであるならば、9節以降の婦人への命令は、女性だけに与えられているものではないはずです。この命令は、傾向的に女性が持つ性格や弱さ、特にエフェソ教会にいた一部の女性たちの弱さを踏まえて記されています。同じ弱さを、現代に生きる女性も、また男性であっても持ちうるのです。それゆえにここに記された婦人への命令を、誰もが自らへの戒めとして聞く必要があるのです。男性がこの箇所を取り上げて「だから女性はひっこんでいろ」などと言うことは、決してあってはなりません。

 9節以下の婦人たちへの命令の中心は、9節の「身を飾るべきであり」という部分にあります。「何で身を飾るか」が問題にされています。この内容を詳しく見る前に、当時のローマ帝国の社会のなかで女性がどのような扱いを受けていたかを知る必要があります。一言で言えば、徹底的な男尊女卑社会です。男性が女性を支配するのが当たり前の時代でした。女の子の赤ちゃんは捨てられることがありました。女性は、性の道具として扱われていました。妊娠したら、体形を維持するために中絶することが当たり前のようになされていました。現代のような医療技術が発達していない時代ですから、中絶により命を落とす女性がたくさんいました。社会で優位に立つのは、常に男性でした。それを踏まえて、パウロの命令を見てみましょう。つつしみ深くあれ、あるいは婦人が男の上に立つことを許さないなどと書かれています。これらの命令は、当時の社会常識からすれば書くまでもないほどに当たり前のことだったはずです。それをパウロが手紙で命じなければならないほど、教会では女性が重んじられていたのです。事実当時のキリスト者の出生率は、異教徒よりも高かったとされています。この出生率の違いを、ローマ帝国でのキリスト教徒の増加の一因に挙げる研究者もいます。

 このように社会的には低い位置に置かれていた女性が、教会では重んじられていました。それが行き過ぎてしまう事例があったようなのです。一部の女性に、自らを優位な立場に置いて男性を見下す人々がいたのです。それを示すために、礼拝において華美な装飾で身を飾る女性がいました。この状況を是正するために、パウロは華美な装飾ではなく、善い業で身を飾るのがふさわしいと書いたのです。決して礼拝で身を飾ることそのものが禁止されているのではありません。身なりを装うことによって、男性よりも上に立とうとした一部の婦人たちのおごりを戒めているのです。12節以降、特に創世記の引用も、このような背景から理解する必用があります。これはあくまで、男性よりも優位に立とうとした婦人たちに向けて語られた言葉です。女性には女性の弱さがあるのです。もちろん男性には男性の弱さがあります。皆が弱さを持つ存在でありますから、性別の違いによって自らの霊的優位を主張することは誰もできないのです。

 では、女性としての弱さを持つ婦人はどうふるまうべきでしょうか。それが15節です。「貞淑」という言葉は、抑制ですとかセルフコントロールを意味します。教会において自らの優位を主張し他者を見下すのは、自己抑制が効いていない状態です。そのような人たちに対して、貞淑と訳された言葉によってセルフコントロールを求めたのです。婦人たちがそのように行動するならば、子を産むことによって救われるとパウロは書きます。当時の社会では、中絶してまで体形維持して身を飾るしか、女性の価値が認められませんでした。それに対して、子供を産むことの積極的な意味がここで示されます。これは命を危険にさらしてまでも身を飾らなければ生きていけない世の中からの救いを意味します。そのような救いが、教会にあるのです。ところで「子を産むこと」は、「母になること」という意味もある言葉です。少し拡大解釈になるかもしれませんが、教会が神の家族であるならば、教会で誰かの信仰を養い育てることもまた母になることではないでしょうか。上に立って誰かを支配するのではなく、慎み深く兄弟姉妹を敬い、善き業で身を飾ることによってこそ、誰かの信仰を養い育てることができるのです。それは神に忠実に仕え、神でありながら徹底的にへりくだられたキリストのお姿に見ることができます。それが教会で子を産むことであり、母になることです。そう考えますと、たとえ自らの体で産んだ子供がいなくとも、教会では母になれるのです。男性もまた、誰かの信仰を養い育むことで母になれるのです。そのような営みにこそ、キリストによって神の子とされたわたしたちの救いがあるのです。

 

 この後わたしたちは聖餐式に与ります。これは宴であり、パーティーです。聖餐式には聖餐式のドレスコードがあります。それはキリストにあって互いに仕えあい、信仰を育みあうことによる装いです。この装飾に身を飾りつつ、素晴らしい聖餐式の宴に共にあずかろうではありませんか。