2022年10月30日宗教改革記念礼拝説教「信じる者を義とするために」

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章21~26節

信じる者を義とするために

 

 本日は宗教改革記念礼拝です。今回は信仰義認をとりあげます。わたしたちは主イエスを信じる信仰によって義と認められ救われる。これが、当時のカトリック教会への批判として主張されました。しかしなぜこの信仰義認が主張されたかを知ることが大切です。なぜなら宗教改革当時のカトリック教会が、必ずしも信仰による救いを否定していたわけではないからです。ですから「信仰による救い」「信仰義認」を機械的に主張しさえすれば十分なのではありません。その教えをどのように理解し、どのように実践するかが重要です。

 そのために、まずは聖書から信仰義認について学んでまいりましょう。本日は、使徒パウロが記しましたロマ書3:21~26を選びました。ここでのパウロの主張の中心は、21~22節です。まず押さえておきたいのは、「律法とは関係なく」という言葉です。旧約聖書に記された律法とは、神の民に対して「このように生きてほしい」と神が願われた御心です。パウロは、律法がもはや必要ないと言いたいのではありません。この言葉は、直前20節の「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」とつながっています。つまり「律法を実行することとは関係なく」という意味です。律法の実行に基づくのではなく、イエス・キリストを信じる者すべてに与えられる神の義をパウロは主張したのです。ユダヤ人であろうが異邦人であろうが差別なく、人は信仰によって義とされる。これが聖書の教える信仰義認です。このパウロの主張の根拠が23節以下で記されてまいります。まず23,24節には、人が皆罪を犯して神の栄光を受けられなくなっているとあります。罪とは、神の思いとは離れてしまっている状態です。それゆえいくら律法を行ったとしても、神の御前に義と認められることはありません。なぜなら律法を守るとは、その律法にこめられた神の御心に従うことが何よりも求められるからです。神に従うために頑張れば頑張るほど、それに従い得ない自らの姿が露わにされます。それが我々の現実です。このように、罪の中にあるわたしたち人間は、神の律法すなわち神の御心に従うという行いによってはまったく救いようがないのです。そのような人間に恵みとして与えられたのが、キリスト・イエスによる贖いの業をとおして、神の恵みにより無償で与えられる義なのです。キリストの贖いとは、十字架による身代わりの死です。それは人の行動を根拠にするものではなく、キリストの行動が根拠となります。それは神の恵みにより、無償で与えられます。人間の側の行動や努力を根拠としないということです。いずれにしても、人の側の何かが神の義の根拠にはならないのです。

 ここで神の義(正しさ)にも触れておきましょう。深い意味を持つ言葉ですが、本日は二つの意味から神の義を説明します。一つ目は、悪を必ず罰せられるという意味での神の義です。神の御前に義と認められなければ、我々は救われるべくもなく滅びる存在です。反対にわたしたちが救われて神に愛されるためには、義なる神から「お前は正しい、義である」と認められることがどうしても必要なのです。さて神の義の二つ目の意味は、約束を必ず守るという意味での神の義です。神はアブラハムの子孫である選びの民に約束を与えてくださいました。これは端的に言ってしまえば、選びの民を必ず救ってくださるという約束です。神はこの約束を必ず守ってくださる。これが神の義のもう一つの意味です。しかしながら人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられない存在です。アブラハムの子孫である選びの民とて、それは例外ではありません。しかし神の民が滅んでしまったならば、神の民を救い出すとの約束を守ることは不可能となります。ここに、神の義をめぐる葛藤があります。それでも神御自身がメシアを送り、このお方によって神の民を救い出してくださる。これが旧約聖書の内容であり、21節に記されている「律法と預言者によって立証されて」の意味です。旧約聖書のこの証しに従って、神はキリストを与えてくださいました。罪人の代わりにキリストを罰することにより、人が犯した罪を見逃す。この驚くべき方法によって、悪を罰する神の義と、選びの民を救うという約束を守るという意味での神の義が示されました。それによって、神が正しいお方であることを明らかにされたのです(26節)。

 

 ここでお話しを、宗教改革に戻しましょう。当時のカトリック教会は、信仰に伴う行いが重要視されていました。あなたがキリストを信じているならば、あれをして当然だ。これもすべきだ。それをしないならば、それは十分な信仰があるとは言えない。よって救われない。このような理解は事実上、救いがその人の行いによって左右されるということになります。だからこそ宗教改革においては、行いによらずただ信仰によってのみ救われるという信仰義認が主張されたのです。わたしたちの中にも、行動によって信仰が左右されるような理解がないでしょうか。わたしたちは、実績によって評価される世界で生きています。それゆえに信仰においても、実績という人の側の行動によって評価しようとする理解に陥りやすいのです。しかしわたしたちは自らの行いに左右されることなく、ただキリストを信じる信仰によって義と認められ救われるのです。結局我々の問題は、信仰によって救うと約束してくださる神を、正しく真実なお方だと信じることができるかどうかにあります。神を正しく真実な方だと信じられないから救われるために「あれもしなければ、これもしなければ」と不安になり、頑張り始めてしまうのです。大切なことは、キリストの十字架によりわたしの救いを十分に満たしてくださった神を、正しく真実なお方だと信じることなのです。