2022年10月23日礼拝説教「命を守るために逃げよ」

聖書箇所:創世記27章41節~28章5節

命を守るために逃げよ

 

 逃げるという行動は、どちらかというと否定的にとらえられがちです。それに対して危険を顧みず雄々しく戦う人々は、模範的な信仰者として好意的に描かれることが多いでしょう。今日の箇所におけるヤコブは、43節で母から逃げることを勧められます。そして彼は、逃亡の旅に出ることになります。聖書はこの逃亡を批判的に描いてはいません。それどころか、この逃亡が神の御計画として用いられていくのです。そこで「逃げる」という行為について、今日は考えてまいりたいのです。

ヤコブが逃げなければならない状況に陥ったのは、彼が長子の権利を奪い取ったためでした。このことを長男エサウは激しく恨み、ヤコブを殺す決意を固めます。そのことをヤコブとエサウの母リベカが聞きました。そしてハランの地にいる自分の兄ラバンの元に逃げるようヤコブに勧めたのでした。ところでヤコブが奪い取った長子の権利は、アブラハムに対してなされた神の約束と結びついています(28:3,4)。ヤコブが長子の権利を受け継いだということは、彼をとおしてこの神の約束が実現することが神の御心として示されたということでもあります。ここで皆さんの頭の中に、信仰深い人を思い浮かべていただきたいのです。その人がヤコブと同じ状況に置かれたとしたら、どう行動するでしょうか。恐らくその人は、命の危険があったとしても神の約束の実現を信じてカナンの地にとどまることを選ぶのだと思うのです。危険を冒してまで、神の約束の実現のために雄々しく戦う。それがわたしたちを含め大半の人々の想像する、信仰深い人のイメージです。しかしヤコブは逃げました。それにより、神の約束実現は困難になったように見えます。このヤコブの行動は、一見すると不信仰に見えます。しかしこのヤコブの逃亡が、驚くべきことに神の御心であったのです。

 ここから2つのことが示されます。一つは、わたしたち人間の側の勇敢な行動によって、神の約束が実現へと向かうのではないということ。もう一つは、わたしたちがイメージする信仰深さや信仰的な勇敢さは、しばしば神の御心とずれるということです。これは主イエスをいさめたペトロにも当てはまります(マタイ16:22)。神のために戦っているつもりで、実はサタンのために戦っていた。この笑えない事態が、わたしたちの信仰生活のなかではよく起こるのです。神の約束の実現は、ただ神の御業と導きによるのです。人の能力や勇敢さに左右されるものではありません。

さて46節からは、ヤコブの逃亡にもう一つの意味が加えられます。それは、ヤコブがカナンの娘の中から妻を迎えないようにする、ということです。46節のリベカの発言は、ヤコブがエサウから逃げるためのイサクへの根回しでしょう。ただ彼女の嘆きは本心でもあります。妻リベカのこの言葉を聞き入れたイサクは、ヤコブを呼び寄せて祝福して命じました(28:1b~4)。こうしてラバンの元に向かうヤコブの旅に、結婚相手を見つけるというもう一つの意味が加わります。それによって、ヤコブの受け継いだアブラハムの約束が実現していく道筋が示されるのです。

 ところでエサウの妻についてのリベカの悩みは、単なる嫁姑問題ではありません。神の民がカナンの土地の娘をめとることは、旧約聖書においてその地の宗教との結婚を象徴する行為として描かれます。ですから46節でリベカが「生きているのが嫌になりました」というのは、神を拝みながらも神以外のものを大切にする生き方の悲惨を指しています。ヘト人の娘を妻に迎えたのはエサウです。それが、家族にまで大きな悲惨をもたらしたわけです。このことを踏まえますと、28:1でイサクがヤコブにカナンの娘の中から妻を迎えてはいけないと命じた意味が、より明確になります。お前はエサウのような生き方をするな、ということです。ですからヤコブの逃亡は、単に体の命を守るためだけのものではなく、霊的な命を守るためのものでもあるのです。すなわち主なる神以外のものを頼る生き方からの逃亡です。主なる神以外のものは、必ずしも異教の神とは限りません。現代社会において、自らを救うものとして奉られているものの最たる例は、自分の力でありましょう。自らの力に頼る生き方の行きつく先が、生きているのが嫌になったという46節のリベカの言葉ではないでしょうか。現代社会を生きるわたしたちは、自分の力、自分の勇敢さでなんとかしなければならない生き方に慣れ親しんでいます。しかし世の中には、自分の力ではどうしようもできないことが五万とあります。自らの力が周囲から認められない人々が、苦しみあえいでいます。そのような悲惨な生き方から逃げよと、聖書は我々を促すのです。

 ところで逃亡したヤコブに残されたものは、イサクがヤコブに与えた祝福でした。それはアブラハムになされた神の約束に基づく祝福でした。自らの力に頼る生き方から逃げるわたしたちに残されたものもまた、聖書に記されている神の約束です。旧約聖書に記されたアブラハムの約束が、時いたって主イエスキリストの十字架によって実現したことを新約聖書は示しています。ですから、自らの力に頼る生き方から逃れるわたしたちに残された神の約束とは、キリストの十字架による救いに他なりません。一見何の力もないように見えるキリストの十字架にこそ、確かな救いがあるのです。

 冒頭にも触れましたが、信仰というと大きな犠牲を払って雄々しく戦うことが強調されがちです。しかしわたしたちがなすべきことは、キリストのために自らの力に頼って戦うことではありません。自らの力に頼る生き方から、キリストのみに頼る生き方へと逃げることなのです。この逃亡こそが、命を守るためにわたしたちがなすべき闘いなのです。