2022年10月16日礼拝説教「すべての人々が救われるために」

聖書箇所:テモテへの手紙一1章18節~2章7節

すべての人々が救われるために

 

 18節において、パウロからテモテに対して命令が与えられています。それは、信仰と正しい良心を持って雄々しく戦いなさい、という命令です。戦ってでも守るべきものが、教会にはあります。教会が戦うべき相手は何でしょうか。19節の中ほどから記されています。正しい良心を捨て、その信仰が挫折してしまった人々。これが戦うべき相手として挙げられています。「正しい良心を捨て」とありますから、もともとは正しい良心を持っていた人です。「信仰は挫折してしまった」とありますから、もともとは健全な信仰を持っていた人々です。つまりこの人々は、主イエスを信じる信仰を確かに持っていた教会員です。その中から、正しい良心を捨て信仰が挫折する人々が出てきてしまったのでした。つまり、信仰の方向性を間違ってしまった人々です。信仰が挫折してしまった人として、ヒメナイとアレクサンドロの二人が挙げられています。ヒメナイは、復活はもう起こったと言ってある人々の信仰を覆していた人です(二テモテ2:17)。アレクサンドロは銅細工職人で、パウロの言うことに激しく反対した人です(二テモテ4:14)。

 聖書を信じキリストを信じながらも、健全な教えから外れてしまうとどうなるでしょうか。教会の歴史の中で、異端に傾いていった教会の例を見ればわかりやすいでしょう。自らの考えに反する人々に滅びを宣言し、自らの考えに合う人に救いを限定する教えになります。しかし、異端化しなかった正統な教会にそのような傾向が全くなかったわけではありません。聖書を用いてやたらと救いと滅びの線引きをしようとする考え方は、誰にとっても無関係ではありません。救いと滅びの境界線を、わたしたちは自らの理解によって引きがちです。この考え方こそ、教会の中で徹底的に戦えとパウロがテモテに命じた敵なのです。このような不健全な理解に陥ってしまっていたヒメナイとアレクサンドロを、サタンに引き渡したとパウロは書いています。キリストの支配からサタンの支配へと引き渡したということです。教会的な交わりから除いたということであり、わたしたちの教会に置き換えて言えば陪餐停止や除名といった教会戒規に相当します。

 このようにパウロは、教会内の不健全な教え、救いと滅びを線引きする考え方に断固として戦うようテモテに命じています。ここで大切なことは、どう戦うかです。教会の中における戦い方があるのです。それが2章から記されます。第一のこととして勧められているのは、願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげることです。その実例として、王たちやすべての高官のためにもこれらをささげるようにと、パウロは命じます。王や支配者のために祈ることは、ユダヤ教において伝統になされていたことです(エズラ6:9~10、バルク書1:11など)。しかしパウロにとって、王や高官たちは決して都合の良い人々だけではありませんでした。ときにパウロを拘束し、尋問した人々でもあります。パウロは最終的に、皇帝ネロの時代に殉教したと伝承されています。当然彼らは皆、異教徒です。このように考えると、彼らはパウロから見てキリストの救いから最も遠い人々だったのかもしれません。そのような人々のためにも、呪いではなく願いと祈りと執り成しと感謝とをささげよと、パウロは命じるのです。これは主イエスが、マタイ5:44で敵を愛し自分を迫害する者のために祈れと命じられたことの実践と言えます。これこそ教会の中での戦い方なのです。その根拠が、4節に記されています。この言葉は、万人救済を意味していません。ここでパウロが言わんとしていることは、神は誰の滅びをも喜ばない、ということです。ここで思い起こしていただきたいのです。パウロがテモテに対して戦うよう命じた敵とは、自らの考えによって救いと滅びを線引きする人々です。それに対して神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。この神の望みを自らの望みとすることへと、わたしたちは召されています。では神が与えてくださる救い、わたしたちが知るべき真理とは何でしょうか。その要約が、5~6節です。人の救いは、この神によるほかありません。そしてこの神と人とをつないでくださる仲介者も、人であるキリストイエスを置いてほかにありません。この方は、すべての人の贖いとして御自身を十字架にお献げになられました。「贖い」ということですから、負債を負った罪人の救いこそキリストの救いであり神の救いです。それゆえに、どれほど罪にまみれたように見える人であっても、その人の救いをあきらめる必要はないのです。

 この救いの証のために、パウロは異邦人に信仰と真理を解く教師として任命されました。異邦人もまた、救いから遠いとされていた人々です。そんな彼らの教師として使徒パウロが立てられた事実そのものが、神の御心の現れです。そのパウロは、サタンに引き渡したヒメナイとアレクサンドロの救いもあきらめてはいません。彼らが神を冒瀆してはならないことを学び、健全な信仰に戻ることをパウロは願い続けています。彼らを滅ぼすためではなく、彼らを滅びに至らせないためです。パウロのこの姿勢にこそ、彼の教える教会内での戦い方です。彼らの救いを求めるからこそ、救いをもたらさない不健全な教えとは徹底的に戦うのです。

 

 教会の闘い。それは、すべての人がキリストの十字架によって罪赦されて救われることを願い続ける戦いです。どれだけ救いから遠く見える人々の救いをもあきらめない闘いです。それはわたしたちの唯一の神がご計画された唯一のキリストによる救いが、十字架の贖いによる罪人の救いだからです。だからこそ、キリストの体なる教会は誰の救いをもあきらめないのです。わたしたちは誰の救いをも、あきらめなくてよいのです。