2022年10月2日礼拝説教「律法は福音」

聖書箇所:テモテへの手紙一1章8~11節

律法は福音

 

 テモテが監督をしていたエフェソ教会は、律法の教師でありたいと思う人々によって問題が引き起こされていました。律法とは、主には旧約聖書に示された神の戒めを指しています。ただし4節で「系図」が話題に挙がっていることから、律法は旧約聖書全体をも含んでいるようです。律法の教師でありたいと思う人々は、自らの正しさを証明するために律法の無益な議論や無意味な詮索を行っていました。そのような律法の用い方は誤りであるとパウロは指摘をします。これが前回までの箇所の大まかな内容です。

 パウロのこの指摘は、無律法主義の誤解を生む恐れがあります。すなわち律法そのものが悪であるという理解です。旧約聖書の戒めよりも、新約聖書に記されている罪の赦しや神の恵みの方が、わたしたちには受け入れやすい面があります。それゆえキリストが現れてくださった今は律法や戒めのような堅苦しいものは不要であるとの誤解に、現代を生きるわたしたちもまた陥りやすいのです。それを見越してパウロは、正しく用いるならば律法が良いものであると記します(8節)。問題は、本来良いものであるはずの律法を正しく用いないことです。

 では律法の正しい用い方とは、どのようなものでしょうか。それが9節から10節にかけて記されています。律法が誰のために与えられたかを知ったうえで用いること。これが正しい律法の用い方です。そしてパウロは、律法が正しい者のために与えられたのではなく、端的に言ってしまえば、正しくない者のために与えられたと教えます。正しくない者の例として、9節後半から律法に違反する様々な人々が挙げられています。これらは十戒と似た構造になっており、前半が神に対しての違反、後半が隣人に対する違反です。主イエスは律法の要約として、神を愛することと、隣人を愛すること、という二つの掟を挙げています(マタイ22:37~40)。ですから結局のところ正しくない人々というのは、神を愛せず隣人を愛せない人々を指します。そのような人々のために律法が与えられているのです。

 ここで注目したいのは、9節で「律法は、正しい者のために与えられているのではなく」と書かれている点です。パウロのこの記載は、直前の箇所で触れている「律法の教師でありたいと思っている人々」が念頭にあったはずです。彼らは自らの律法理解を披露しながら、自分たちが正しいと思っていました。ですから上述の9節の記載は、自らの正しさを証明するための道具として律法が与えられたのではないということを意味しています。 反対に、律法は正しくない者のために与えられているのです。それは、正しくない人々が律法によって滅ぼされるためではありません。正しくない者の益となるために、です。さらに言うならば、正しくない者が救われるためです。この律法の目的が、祝福に満ちた神の栄光の福音と一致するのだと、パウロは11節で書くわけです。

 ここで、パウロの語る「福音」についても触れる必要があるでしょう。神学者のJ.D.ダンが著書「使徒パウロの神学」で、パウロの語る福音はイザヤ書61章の良き知らせが念頭に置かれていると指摘されています。そこに記されているのは、貧しい人、打ち砕かれた人、捕らわれ人、嘆いている人々への解放の知らせです。本来救われるべくもない悲惨の中にいる人々が解放され、彼らにこの上ない喜びが与えられる。これがイザヤ書61章における喜びの知らせです。このイザヤ書61章は、クリスマスにおいてよく読まれる箇所です。この喜びの知らせが、キリストの十字架によって成し遂げられたからです。これこそが、パウロの語る福音の内容です。これが、まさに正しくない者のために与えられた律法の目的と一致するのです。もっと踏み込んで言うならば、律法もまた福音の一部なのです。

 では悲惨の中にある人々を解放するために、律法はどのように用いられるのでしょうか。悲惨の中にある人々が解放されるためには、まずは自らの悲惨に気づく必要があります。しかし律法から離れ、神を愛せず隣人をも愛せずに生きている人々は、その悲惨にすら気づくことができません。自らの問題に気づくことなく、自らの正しさを主張しながら互いにいがみ合い、殺し合いながら生きている。それが悲惨の中にあるわたしたち人間の姿です。この悲惨に気づかせてくれるのが、律法なのです。わたしたちは律法をとおして初めて、そこに示された神の御心に従いえない自らに気づくのです。その悲惨に気づいてはじめて、キリストの十字架を求めることへと導かれます。そして罪赦されて、自らの悲惨から解放されます。こうして悲惨から解放された者は、今度は律法に従いながら神と共に生きはじめます。ここでもまた律法が用いられます。罪人が自らの悲惨に気づき、十字架によって罪赦されて、神と共に生きる。これこそまさに、神の福音の出来事です。そのなかで、律法は大切な役割を担っています。

 

 このように律法は、主イエスキリストの十字架によって実現した福音へとわたしたちを導くためにあるのです。わたしたち罪人が、律法を完全に守り切って自らの正しさを主張することなどできません。そもそも律法は、そのような用い方をするために与えられたのではないのです。この点で、エフェソ教会において律法の教師でありたいと思っていた人々は根本的に律法の用い方が誤っていたわけです。わたしたちは律法をとおしてキリスト十字架へと導かれ、律法をとおしてキリストの十字架にとどまり続けるのです。わたしたちの救いは、この十字架にしかありません。そしてこの十字架にこそ、確かな救いがあります。この喜びの知らせである福音が、律法をとおしてわたしたちに示され続けるのです。