2022年9月25日礼拝説教「正義はどこに」

聖書箇所:ルカによる福音書18章9~14節

正義はどこに

 

 コロナ禍に入って以降、正義について注目される機会が増えています。最近で言えば、ロシアとウクライナが、互いに正義を主張しあって戦争しています。コロナワクチンについても、打つか否かの論争は激しいものがあります。人と人との正義が互いにぶつかり合っています。自らの正義を主張する言葉は、世の中にあふれています。それと同じくらい、相手の間違いを指摘し、説き伏せようとする言葉があふれています。それゆえに、どのような正義に自らをゆだねるかは、自らの生き方を左右する問題です。聖書は、わたしたちが寄って立つべき絶対的な一つの正義があると教えています。今日の聖書の言葉に出てきました「義」というのが、まさにそれを示しています。キリスト者ではない方は、おそらく「絶対的な一つの正義」に同意しかねると思います。それならそれで構いません。ただ自らの「正義」を考えるうえでの参考にしていただければ嬉しく思います。

 さて今日見ますのは、主イエスが語られたたとえ話です。このお話には、ファリサイ派の人と徴税人が登場します。二人の人は祈るために同じ神殿に上りました。一緒に初もうでに行くような場面を想像していただければよいでしょう。そして二人は同じ神に祈ります。しかし祈りの内容は、大きく異なるものでした。

まずはファリサイ派の人の祈りを見てみましょう。ファリサイ派とは、当時のユダヤ教の一派です。当時はキリスト教とユダヤ教ははっきりと分かれていません。ですから誤解を恐れずに言うならば、ファリサイ派もまたキリスト者の一部と考えた方が今日の内容は理解しやすいでしょう。ファリサイ派の特徴は、一言で言えば「生真面目」です。12節を見ますと、この人は祈りの中で自らの行動について言及しています。旧約聖書で断食が明確に命じられているのは、年一回のみです(レビ23:24以下)。しかしこの人は週二回も断食をしていました。また旧約聖書で十分の一を捧げよと命じられていますのは、収入のうちのある一部のみです。それに対してこの人は、全収入の十分の一を献金していました。彼は、聖書で命じる内容を超えて厳しい犠牲を実践していました。それを根拠にして、神から自らの正しさを認めてもらって当然だと、彼は思っていました。それがこの祈りにあらわれています。祈りの中で周囲の人々の不正義を挙げながら、自分がこんな人々のようではない正しい人間であることを神に感謝したのでした。

 次に徴税人の祈りを見てみましょう。徴税人とはローマ帝国の役人として税を集める仕事をしていた人々でした。彼らは、神に従うよりも長い者に巻かれることを選んだ人々と見られていました。しかも徴税人たちが規定よりも多く税を徴収し、ピンハネすることもしばしば行われていました。神の正義からは最も遠い人。そう思われていたのが、徴税人でした。この徴税人の祈る姿が13節に記されます。目を天に上げるというのは、当時の祈る姿勢でした。彼はそれをしようともしませんでした。自らが神に祈る資格すらないと思っていたからです。それでも彼が自らの罪を思うとき、神の憐れみをただただ請い求めるしかないのです。それが彼の祈りでした。人々からの評価でも、自らの目から見ても、自分が正しい生き方をしているとは彼は決して思えないのです。その点でこの人の自己認識は、ファリサイ派の人とは真反対でした。

 この真反対な二人が同じ神殿に上り、同じ神に祈る。それが今日のお話なのです。では神の正義という尺度で見るならば、この二人のどちらが正しいのでしょうか。14節にその答えがあります。正義の神によって義とされて帰ったのは徴税人の方であって、ファリサイ派の人ではありませんでした。正義を主張して自らが正しくあることを誇るのは、神の正義から見るならば正しくないのです。そして自らを神の正義から遠いと嘆く人を、神は正しいとみなされるのです。誤解を恐れず端的に言うならば、正しくない者を正しい者とみなす。これが聖書の教える神の正義です。それがよく現れているのが、主イエスキリストの十字架です。このお方は、正しいにも関わらず正しくない罪人として自ら十字架にかかられました。それによって、神の御前に正しくない罪人が、正しい者とみなされるためです。ここに、神の正義が最もよく表れています。

 聖書は「正しい人は誰もいない」と語ります。すべてをご存知の神の前で、自分の正しさを主張できる人など誰もいません。どれほど自らの正義を主張しようとも、完全な正義であられる神を前にしては誰もが滅ぶべき罪人です。そのような罪人を、キリストの十字架の故に赦し、正しい者とみなしてくださる。これが神の正義です。この神の正義を基準にして、ファリサイ派の人と徴税人を見ますと、正しい自己認識を持っていたのは徴税人のほうでした。神の御前に正しい人などいないからです。だからこそ神は、へりくだった徴税人を義と認めてくださったのです。彼の祈りを聞いて、もう心配しなくて良いと、もう自らを嘆かなくてもよいと、家に帰してくださるのです。これが正しくない者を正しいとみなしてくださる神の正義です。主イエスの十字架によってあらわされた神の正義です。ここにこそ、本当の正しさ、本当の正義があるのです。

 

 今は正義と正義がぶつかりあう時代です。しかし誰かの不正義を攻撃しながら自らの正義を主張するところに、本当の正義はありません。正しくない者を赦し、正しいとみなされる神の正義にこそ、本当の正しさがあります。この正義が実現する場所が、教会の礼拝です。この神の正義を、あなたの生き方の土台としてみませんか。