2022年9月18日礼拝説教「だまし取った祝福」

聖書箇所:創世記27章1~4、18~29節

だまし取った祝福

 

 本日は、ヤコブが兄エサウの祝福をだまし取るお話です。「祝福」という言葉は、教会においてもよく用いられます。では祝福とは何でしょうか。このお話しでの祝福の意味は、27~29節のイサクの言葉に記されています。「いいことがありますように」といった漠然としたものではありません。祝福は、収穫と財産が与えられることに関係します。祝福は多くの民を支配することを意味しています。そして祝福された者自身が、神の呪いと祝福の源になることを意味しています。これらはすべて、イサクの父アブラハムに対して神が特別に与えてくださった約束に基づいています。この約束が、祝福された者をとおしてこの地上に実現していくのです。神の約束の器と言うこともできるでしょう。

 この祝福が、今日の場面でイサクから息子へと受け継がれます。もはやイサクは年老いて目がかすみ、死を間近に感じる状況だからです。ちょうど明日は敬老の日です。神の祝福は、今も昔も世代間で受け継がれていくものです。しかし自動的に受け継がれていくわけではないようです。その祝福を巡って、エサウとヤコブの兄弟は激しく争います。この家族は皆、祝福を自らの思いのままにコントロールできるものと理解しているようです。イサクは自らの意志に基づいてエサウに祝福を与えることを決意します。祝福を与えるにあってイサクは、3~4節に記されていることを命じます。原文では、この一つ一つの指示に「私のために」という言葉がついています。わたしに良くしてくれるエサウに祝福を与えようとしたのです。エサウもまた、長子であり父に尽くす自分こそが祝福を受けるのは当然であると考えていました。一方でリベカとヤコブは、それを自らの手で得るために計画し行動します。この二人もまた、神の祝福を「人の手で奪い取ることのできるもの」と考えています。このように今日の登場人物の誰もが、神の祝福を自らの考えに基づいてコントロールできると考えています。一方神の祝福は、人の意思に縛られることなく神の御心に基づいて自由に振る舞います。誰もが自分の意思に基づいて自由に行動していますが、それらを用いて結果的に25:23に示された神の御計画が実現していくことになるのです。

 ところで、祝福をだまし取ったヤコブの行動はどう評価すべきでしょうか。少なくとも聖書は、否定的に語ってはいません。だましとった祝福も有効でした。そもそも彼が祝福をだましとろうとしたのは、自分が祝福を得るのにふさわしい立場ではなかったからでした。本来ふさわしくないからこそ、必死にそれを得ようとしたのがヤコブです。そのヤコブに祝福を与えることが、主の御計画であり神の御心であったのです。我々人間とは異なる基準を、神はお持ちです。その意味で、祝福は人の意思には縛られないのです。わたしたちの周りには、祝福を受けるにふさわしいと思われる人々も、逆に祝福を受けるに相応しくないと思われる人々もいます。しかし神は、しばしば後者の人々を選ばれます。今日のお話でヤコブが祝福をだまし取ったこともまた、この一つの表れです。当時の慣習の面でも、今日のお話の行動からみても、父から祝福を受けるべき立場にあったのは兄のエサウでした。それが人間の常識に基づく基準です。しかしそれを超えて神は、ヤコブをお選びになったのでした。

 自らが祝福を受けるのが当然と考えていたエサウと、自らが祝福には相応しくないと考え必死にそれを求めたヤコブ。この二人の関係は、主イエスの周りにいたファリサイ派の人々と徴税人たちの関係と重なります(マタイ9:9~11)。ファリサイ派とは、多くの献金をし、聖書の言葉に従って厳しい制約を自らに課していた人々です。立派に神に従う自分たちこそが神の約束の正当な継承者であると、彼らは信じて疑いませんでした。その結果、彼らは主イエスのもとには来ませんでした。一方徴税人や罪人は、人々から蔑まれていました。彼ら自身も、自らが神の祝福を受けるのに相応しいとは思っていませんでした。だからこそ、彼らは祝福を得ようと必死でした。そして彼らは主イエスのもとに来たのでした。

 わたしたちもまた、神の祝福を受けるに相応しくない者です。その点で、わたしたちは徴税人であり、ヤコブなのです。徴税人にしても、ヤコブにしても、神の御前に綺麗な生き方ができなかった人です。それでも祝福を求めて、泥臭くもがいた人々です。これは、わたしたちの信仰の歩みの姿でもあるでしょう。しかしわたしたちは、自らが神の祝福を受けるに相応しい理想的な信仰者であることを望みます。もちろん口では「自らは罪人です。お赦しください」と語るのです。しかしそれによって、神の御前にこんなにもへりくだっている自分こそが祝福を受けるのにふさわしいと、心の中で思うのです。それがわたしたちの姿です。これはまさに、父に従いながら祝福を得ることが当然と考えていたエサウの姿です。聖書ははっきりと、神の御前に正しい者はいないと語ります。だからこそ今日、口先だけでなく、本当に自らが主の御前に祝福を得るのに相応しくない存在であることを認めることから始めたいのです。この点を認めるからこそ、わたしたちは心から主イエスキリストの十字架の恵みを求めることができるのです。その時にこそ、相応しくない者に祝福をお与えになる神の御計画は実現するのです。

 

 この祝福は、冒頭申しましたとおり神がアブラハムにしてくださった約束に基づいています。祝福された者が、神の祝福の源となる約束です。祝福を受けるに相応しくないわたしたちが、主イエスの十字架のゆえに祝福をいただいています。このわたしたちをとおして主の祝福は、神の御前に相応しくないあらゆる人々に広がっていくのです。