2022年8月7日平和を覚える主日礼拝説教「主よ、いつまでですか」

聖書箇所:ハバクク書1章1~11節

主よ、いつまでですか

 

本日は平和を覚える主日です。平和がこれほどまでに脅かされ、またこれほどまでに求められている年は、近年ありませんでした。世界中の様々な紛争・対立を見るときに、求めている平和がかえって後退してしまっているのではないかと思わずにはいられません。聖書に示された平和の神を信じているがゆえに、わたしたちはこの現状にやりきれない思いを覚えます。今日の預言者ハバククの嘆きの言葉は、今のわたしたちたちが抱く思いと近しいものがあります。彼の前にも不法があります。暴虐があり、いさかいがあり、争いがあります。彼が生きたのは、南ユダ王国末期の激動の時代です。北イスラエルを滅ぼしたアッシリアが衰退したことに伴い、エジプトが支配を強めてました。一方東では、アッシリアに代わってバビロニア帝国が力をつけてきています。この二つの大国の争いの矢面に立たされていたのが、弱小国の南ユダでした。この状況のなかで南ユダ王国のなかでもまた、神の律法が無力となり正義は示されないのです。神の御前に正しく生きようとしても、神に逆らう者がそれを囲み、正義を行おうとしてもそれが曲げられてしまいます。そのことを彼は神に嘆いているのです。

それに対する主の答えが、5節から与えられます。お前たちの時代に一つのことが行われると言われます。その内容が6節です。カルデア人は、東から勢力を増しているバビロニアを指します。この国民が強く恐ろしい民であることが7~10節で語られます。この民から、裁きと支配が出るのです。日本語には訳されていないのですが、この部分をより厳密に訳すなら「彼らの裁きと彼らの支配」です。よってこの民が、神の支配を代行し神の正義を行うと言うことではありません。冷酷で恐ろしい国民による裁きであり、そのような支配が地上をおおうのです。その結果彼らは、砂を集めるようにとりこを集めます(9節)。そして彼らは、王たちや支配者たち、どんな砦であっても嘲笑って攻め取っていくのです。

この強い民、カルデア人によって示唆されているのは、南ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚です。それがハバククの嘆きに対する神の答えです。ハバククの嘆く状況は、さらに悪化します。しかも神の御計画として、このことが告げられます。だからこそ6節の最後で主は「それを告げられても、お前たちは信じまい」と言われます。それは主なる神というお方が、わたしたちの持つ神観とは大きく異なるからです。わたしたちが神に期待することは、苦しい時に叫べば、それを聞いて苦しみを取り去ってくれることです。しかし神は、そのような我々の望む答えをお与えにはなりません。もっと悪くなる。さらに平和は遠ざかり、神の正義ではなく恐ろしい民の裁きが行われるようになる。嘆くハバククに対して、主はそうお答えになるのです。だからこそ、お前たちは信じまいと言われます。

神の答えは非常に厳しいものでした。しかしこれが、わたしたち信仰者の置かれた現実です。神に従っても、願い求めても、自らの望んだことから遠ざかる方向へと事態が動いていくときがあります。それはわたしたちが思い浮かべる平和と、神のお考えになる平和に隔たりがあるからです。あるいは、平和が実現するまでの道のりにおいて、わたしたちの考えと神の御心に隔たりがあるからです。わたしたちだけでなく誰もが、自らの理想と目の前の現実に隔たりを感じています。この隔たりをどう受け止め、どのように埋めていくか。これが生きる上での課題であり続けます。それを埋めようと、誰もが頭を悩ませるのです。平和に関して言うならば、誰もが自らの理想とする平和を求めています。思えばカルデア人もそうではないでしょうか。彼らには、彼らの考える平和がありました。彼らは広い領土を求め、力によって彼らの理想とする平和を実現しようとしました。彼らは自らの力を神とし、自らの能力によって、理想と現実の隔たりを埋めようとしたのです。そして南ユダ王国もまた、大国の脅威が迫る中で自らの政治力によって平和を実現しようとしました。そのような南ユダの平和が、カルデア人の力による平和の実現のなかで滅ぼされていったのです。力の強い者が弱い者の平和を破壊して自らの平和を築く。それが今も昔も、世界の現実です。

 

ならば、神の平和はもはや実現しないのでしょうか。決してそうではありません。11節には、自らの力を神とし、それによって自らの平和を実現しようとした彼らが風のように過ぎ去り、罪に定められるとあります。これこそが神の御業であり、神の御計画なのです。そのうえで、神は御自身の平和を打ち立てられます。それが主イエスの十字架による平和です。自分の力に頼り、人々を支配して実現する平和ではありません。自らの弱さに甘んじ、痛みの中で自らを神に委ねることによる平和です。この上にこそ、神は揺らぐことのない永遠の平和を打ち立てられたのです。自らの弱さに甘んじるということは、自らの思い通りにはならない現実と向き合い、痛みを負うということです。嘆くハバククの姿が、それを示しています。しかしハバククの嘆きは、絶望ではありません。なぜなら彼の問いかけは、「主よ、なぜ」ではなく「主よ、いつまで」だからです。彼は目の前の現実を嘆きながらも、最後には必ず神の正義が打ち立てられることを信じています。この嘆きの先に、神の正義は必ず実現するのです。キリストの平和は、必ず打ち立てられるのです。我々も、このようにして神の平和を求めようではありませんか。わたしたちの嘆きの声に、神は答えてくださいます。わたしたちは、「主よ、いつまでですか」と全能の神に嘆くことができるのです。その先にこそ、神の正義、神の平和は実現するのです。嘆きの声を挙げざるを得ない弱さの上にこそ、神はキリストの平和を打ち立てられるのです。