2022年6月26日礼拝説教「敵対の中での祝福」

聖書箇所:創世記25章1~18節

敵対の中での祝福

 

24章で、アブラハムの息子イサクがリベカと結婚しました。その後のお話を今日は学んでまいります。7~11節にかけては、アブラハムの死と埋葬の場面が描かれています。それを囲むようにして、前後には系図が記されています。アブラハムは満ち足りで息を引き取りました。しかし系図から見るに、アブラハムの家族や子孫たちは決して仲が良かったわけではないようです。そのなかで、神の祝福は現れるのです。

1節~6節には、ケトラによるアブラハムの子孫が記されています。イサクが生まれた時点で、アブラハムはすでに子供が望めないほどに老齢でした。よってアブラハムがケトラをめとったのは、まだ正妻のサラが生きていた頃でしょう。それゆえ、ケトラは側女でした(6節)。このケトラとの間にはジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアが生まれました。そしてその子供たちから、いくつかの民族が生まれたことが記されています。アブラハムは生きている間に全財産をイサクに譲りました。一方で側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に東の方、ケデム地方へ移住させました。無用な衝突を避けるために、側女の子供たちをイサクから遠ざけたのでした。

続いて12節以下のイシュマエルの子孫、系図を見てまいりましょう。13節からは彼から生まれた息子たちの名前が12名挙げられています。彼らの名前は単なる個人名には留まらず、村落や宿営地に従ってつけられた名前だと記されています。彼らからそれぞれに部族が生まれ、町ができたのです。彼らが住んだ場所は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋でありました。神がアブラハムに約束されたカナンの地から見れば、エジプトの方角、南西の地方です。彼らは互いに敵対しつつ生活していました。イシュマエルの子孫どうしの敵対に留まらず、イサクの子孫ともまた緊張関係にあったと考えられます。

これらの系図から示されている状況をまとめましょう。約束の地カナンの東には、ケトラの子孫たちが住むこととなりました。一方南西の方には、イシュマエルの子孫たちが住むこととなりました。そしてカナンの地に残ったイサクは、東西に移住した兄弟たちとの緊張関係に置かれています。この状況は、後に神の民イスラエルが、東のバビロンやアッシリア、西のエジプトに脅かされ続けた歴史と重なります。

このような緊張関係の間にはさまれて、アブラハムの死と埋葬が7~11節に置かれています。アブラハム自身は長寿を全うし、満ち足りて死にました。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬りました。その洞穴は、生前アブラハムがヘトの人々から買い取って所有した唯一の土地でした。この土地は、アブラハムと子孫にこの土地を与えるとの神の約束が最初に実現した土地です。この神の約束のもとに、彼は満ち足りて死ぬことができたのです。彼の死後、神は息子イサクを祝福されました。神がイサクを祝福した唯一の理由として考えられるのは、イサクと神の約束との関係です。神の約束はイサクの誕生によって実現し、今後は彼と彼の子孫によって実現していくことになります。彼は、神の約束に相応しい立派な人間だったわけではありません。彼は、家督を継ぐうえで最も不利な末子でした。しかも特別な才能があったわけでも、おそらくないのです。ケトラの子孫が移住した東の方と、イシュマエルの子孫たちが住んだ西の方には、早くから強大な国が興り発展しました。一方イサクが住んだカナンの地の発展は遅れました。世の中をうまく立ち回ったのは、ケトラの子孫たちとイシュマエルの子孫たちの方でした。しかし神は彼らではなくイサクを選ばれ、御自身の約束の器とし、祝福されました。ここに神の選びの不思議な基準があります。このことは、申命記7:7~8にも示されています。

 

この神の選びに基づいて、わたしたちもまた選ばれました。神がわたしたちを選ばれたのも、わたしたちが誰よりも小さい者だからでありましょう。いくら人から褒められ立派だと言われようとも、神から見ればわたしたちは弱く貧弱なのです。それゆえわたしたちは、ときに不安になります。まわりの人々よりも強くあらねばならない、罪のない完全無欠の信仰者であらねばならない、と。罪を憎みそこから離れようとする思いは、大変尊いものです。しかし、罪から離れようとする動機は問われるでしょう。もしそれが、人からも神からも責められることのない立派な信仰者になることであるならば、立ち止まって信仰の在り方を考えなければなりません。もしわたしたちが、自らの努力によって誰からも責められることのない立派な信仰者になろうとするならば、それは神の御心から離れていることになるのです。神は、わたし自身が弱く小さい者だからこそ、このわたしをお選びくださったからです。わたしたちがこの自らの弱さや小ささ、そして自らの罪に目を向けるときにこそ、罪人を救うキリストの十字架の恵みを我々は示すことができるのです。もし仮に救われたわたしたちが、自らの弱さや小ささを覆い隠し、強く立派な者であるかように振る舞うならばどうでしょう。結局は、強く立派な者が優遇され救われるということを示すことになるでしょう。それはキリストの十字架とは程遠い、ありきたりで冷たい救いなのです。わたしたちはそのような冷たい救いを、自らの努力で勝ち取ったのではありません。神は、ただキリストの十字架の故に、この罪深く小さなわたしを選び、救ってくださったのです。この上ない祝福を与えてくださったのです。貧弱なわたしたちが選ばれ救われたがゆえに、神の救いは恵みなのです。この恵みの内に、留まり続けてまいりましょう。