2022年6月5日ペンテコステ記念礼拝説教「神の子とする霊」

聖書箇所:ローマの信徒への手紙8章12~17節

神の子とする霊

 

 本日はペンテコステ記念礼拝です。聖霊が使徒たちに降ったことを記念するお祭りです。この聖霊は使徒たちだけでなく、主を信じるすべての人に与えられています。では、聖霊とはどのような働きをする霊なのでしょうか。それを教えてくれる箇所の一つとして、今日はロマ書の御言葉を選びました。結論を先に言ってしまえば、聖霊はわたしたちを神の子とする霊です。この「子とする」というのは、養子にするという言葉です。養子と言っても、実子であられるキリストとなんら劣らない立場として、わたしたちは養子に迎え入れられるのです(17節)。そしてキリストがマルコ福音書で「アッバ、父よ」と神に親しく呼びかけられたように、子とされたわたしたちもまた「アッバ(“お父ちゃん”という意味)、父よ」と呼ぶのです。今日の箇所では聖霊の反意語として、肉や体という言葉が用いられています。パウロは肉体そのものを悪いものであると言っているのではありません。神学者のJ.D.ダンが、「肉」という言葉にパウロが込めた意味として、いずれ滅びるもの、一時的なもの、そして他者の目に映るものを挙げています。富や名声、人目や世間体など、一時的で他者の目に映る姿を人生の一番の頼みの綱として生きる。それがまさに13節で指摘されている肉に従った生き方です。それらはいずれ滅びる一時的なものですから、それを人生の一番の頼みの綱として生き続けるならばいずれ死に至るのです。そのような空しい生き方を絶たせるのが、聖霊のお働きです。

 続く15節を見ますと、この聖霊に反する存在として「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」に言及されています。一時的なものや人目に映るものを第一にする。この生き方にいざなうのは、人を奴隷として恐れに陥れる霊だとパウロは書くのです。思えば、一時的なものや人目に映る姿を第一する生き方は奴隷のように不自由であり、常に恐れを伴う生き方です。一時的なものや人目がどうでもいいと言いたいのではありません。これらを第一に考え、それらを失ったら人生終わりだという考え方の中で生きるのが不自由なのです。そのような生き方では、成功を積み上げれば積み上げるほど失うことに対する恐れが大きくなるからです。良い人を演じれば演じるほど、どんどん苦しくなるのです。そのような歩みは不自由です。それが、聖霊を与えられる前の人間の生き方です。こういった不自由さや恐れに満ちた生活から解放してくださるのが、わたしたちを奴隷から解放して神の子としてくださる聖霊の働きです。このことを踏まえて、12節のパウロの言葉に目を向けたいのです。パウロに与えられた一つの義務とは何でしょうか。それは福音を全ての人に告げ知らせることです(1:14,15)。神から命じられたこの義務を、わたしパウロは肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務で行っているのではないと書くのです。肉に従う生き方は、先ほど見た通り不自由さや恐れの中で生きることです。そのようななかで義務を果たしているのではないと、パウロは言っています。つまりパウリは、神に強制されて仕方なく、あるいは神の罰を恐れるがゆえに福音を告げ知らせているのではないのです。「アッバ、父よ」と呼びかけることができるほどの神との親しさと喜びのなかで、パウロは義務を果たすのです。義務ですが、強制されてではありません。神の子とされた自由の中で、「神から召された義務を果たしたい」との思いの中で、パウロは福音宣教という義務を果たしています。それこそが、パウロの教える聖霊の働きです。

 さて、わたしたち一人一人にも神から召された役割というものがあるのです。目立つ目立たない、結果の大小は関係ありません。大切なことは、どのような思いのなかで神に従うかです。神観が問われます。奴隷が主人に仕えるように、神の目を気にし、神の罰を怖がりながら仕えてはいないでしょうか。あるいは、兄弟姉妹に対して「そんなことをしていたら神に滅ぼされる」という恐ろしい神観を示し、奴隷のように行動を強いてはいないでしょうか。たとえそれが神のためを思っての行動であったとしても、それは聖霊の働きではありません。恐れや我慢が中心にある信仰には、もろさがあります。それは結局は、他者の目という一時的なものを気にする信仰だからです。わたしたちに与えられた聖霊の働きは、そうではありません。聖霊は、わたしたちを神の子とする霊です。「アッバ、父よ」と呼ぶことができるほどの神との親しい関係の中に入れてくださる霊です。そこには、不自由さや恐れからの解放があります。確かに神の子として生きるうえでの義務はあります。けれども強制されていやいやながらにそれをするのではないのです。このわたしを愛してくださる父のために、わたしたちは喜んで神に従うのです。

 

 わたしたちは、他者から見て立派な信仰者にならなくてもよいのです。十字架上のキリストは、決して周囲の人々から立派な信仰者に見られていたのではありませんでした。主イエスは神の御子として、「アッバ、父よ」と呼ぶほどの親しい父なる神との関係の中で地上の御生涯を歩まれました。奴隷のように強制されてではなく神の子としての自由の中で、自ら十字架の苦難をお受けになられました。このように歩まれた御子キリストに、父なる神は栄光をお与えになりました。わたしたちもまた、聖霊によって神の子とされました。そのようなわたしたちにとって大切なことは、神の子という父なる神との親しい関係の中で歩むことです。わたしたちは罪人ですから、本来ならば奴隷のように神を怖がりながら不自由の中で生きるほかありません。そのようなわたしたちが、お父ちゃんと呼べるほどの神との親しい関係の中で歩むことが許されたのです。これこそ、このペンテコステに与えられた神の子とする霊、聖霊の働きなのです。