2022年5月15日礼拝説教「望みが消えゆくなかで」

聖書箇所:使徒言行録27章1~20節

望みが消えゆくなかで

 

 本日より、使徒パウロが主の御計画(23:11)に沿ってローマへと移動する場面へと入ります。パウロがローマで証しするのは、全能の神の御計画ですから、そのとおりに実現します。問題は、それがどのように実現するかです。この点にこそ、わたしたちは目を向けるべきでありましょう。

 パウロがローマへ護送されるにあたり、彼は囚人数名と共に皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスに引き渡されました。皇帝直属部隊とは、皇帝警護のためにローマに常駐している部隊です。そこに属する百人隊長ユリウスが、この護送の任を担ったのでした。この人はパウロに好意的でしたので、シドンについた際にはパウロが友人たちに会いに行ってもてなしを受けることを許してくれました。ここまでの道のりは、百人隊長の配慮もあって非常に順調でありました。主の御計画に従って歩むときに、その道のりが予想以上に順調である。信仰者にとってこれほど心強いことはありません。そのような恵みのときが、ときにはあるのです。しかしここから雲行きが怪しくなってまいります。シドンからの航海は、向かい風のために順調ではありませんでした。なんとかミラに到着します(5節)。そこからイタリアに行くアレクサンドリアの船に乗り換えました。しかし船足ははかどりませんでした。クニドス港に近づいたものの、風に行く手を阻まれたためにクレタ島の方に回りまして、ようやく「良い港」と呼ばれるところに寄港することができました。この「良い港」についてですが、これは夏の間に寄港する港としては「良い」という意味です。地中海の冬の海は荒れますので、九月後半から三月頃までは原則として船を出すことはできません。そのための越冬地としては、この良い港は適していなかったのです。

 この時点ですでに断食日を過ぎていました。現在の暦で計算しますと、すでに十月に入っていることになります。もはや船を出すことのできる時期ではありませんでした。これ以上の航海は危険でした。そのことをパウロは人々に忠告します(10節)。しかし百人隊長は、パウロの言ったことよりも船長や船主の方を信用しました。大多数の人々の意見も、同様だったようです。そこで良い港から船出して同じクレタ島内にあるフェニクス港へ行き、そこで冬を越すことが決まりました。その港の方が、越冬に適していたからです。 おりしも、移動に適した南風が静かに吹いていました。この風もまた、人々の判断に影響を与えたでありましょう。人々は望み通りにことが運ぶと考えて出港しましたが、そうはなりませんでした。まもなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろしてきました。クレタ島は、島でありながらも2000メートル級の山があります。その山から吹き下ろす風により、もはや島に近づくことができませんでした。2000年前の船にエンジンがついているわけはありません。こうなってしまっては、流されるにまかせるしかありません。やがてカウダという小島の陰に来ましたので、船が波でバラバラになることを防ぐための処置をなんとかすることができました。また、浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨をおろし、流されるにまかせました。しかし暴風は止む気配がありません。人々は積み荷を海に捨て始めます。三日目には、船具までも投げ捨ててしまいました。幾日ものあいだ太陽も星も見えませんから、自分がどこにいるかを知ることもできません。そのようななかで、助かるためのあらゆる望みが全く消えうせようとしていました。

 説教の最初で申しましたとおり、今日の箇所は主の御計画が実現する歩みです。それににもかかわらずこの旅の状況は、悪化の一途をたどりました。神に従う歩みが、何の問題もなく守られるのではないのです。ですから、これが神の御計画だからといって、いたずらにリスクの高い選択肢を選んではならないのです。今回の旅においては、パウロが最も慎重でした。彼は、自分がローマへ行くことが主の御計画であると知っているわけです。彼こそが「主の御計画だから大丈夫だ、先を急ごう」という判断をしそうなものです。しかし10節の発言にあるとおり、彼は誰よりも現実を見つめ、慎重に事をすすめようとしたのです。このパウロの忠告を無視したがために、船は嵐に巻き込まれて漂流することになりました。そのなかで人々は考えをめぐらし、少しでも助かるために努力しました。嵐のなかでは、焼け石に水のように思えるような処置だったのかもしれません。しかしこのような人々の努力が、結果的に主の御計画の実現に用いられていくことになるのです。

 

 わたしたちの歩みもまた、向かい風や嵐に見舞われる道のりでしょう。主に従っているから、すべてが順風満帆などということはありません。向かい風があり、すべての望みが消えうせるような嵐があります。そのなかでわたしたちは、目の前の現実を見据え、与えられた状況のなかで精一杯できることをするのです。それは「恵み」や「救い」という言葉からはかけ離れた、泥臭い歩みです。しかしそのような泥臭い歩みの中でこそ、主の御計画は実現するのです。思えば、この泥臭いこの世の中に、主イエスキリストはお生れくださいました。理想だけでは片づけられないこの地上をわたしたちと同じように歩まれて、罵声の中で十字架にかけられたのです。この主の十字架によって、罪人を救う主の御計画は実現しました。御国とは程遠く見える世に向かって、わたしたちは今週も遣わされてまいります。理想では片づけられない現実がそこにはあるでしょう。わたしたちはその中で話し合い、頭を抱え、自らの力の範囲で努力を重ねるのです。この泥臭い日々の歩み一つ一つは、神の御前において何一つ無駄になることはありません。御言葉に押し出され、わたしたちはこの世界と関わりながら生きるのです。そこにこそ、主の御計画は実現するのです。