2022年4月24日礼拝説教「祈りが聞かれるとき」

聖書箇所:創世記24章28~49節

祈りが聞かれるとき

 

 アブラハムの息子イサクの妻として、リベカが見出されていく物語の続きです。アブラハムは、息子イサクの嫁選びを信頼するしもべに任せました。こうしてしもべは、アブラハムの親戚がいるアラム・ナハライムのナホルの町へと旅立ちまた。しもべがその町の近くの泉のところまで来た際に、彼は主に祈りました。その祈りが聞かれて、アブラハムの親戚にあたるリベカが見出されたのでした。彼女こそ主が決めてくださった娘であると、しもべは確信します。そこで主人から託されていた鼻輪と腕輪を渡しながら、今晩泊めてくれるように頼みまた。そして自らに与えられた神の導きを覚え、神を賛美したのでした。ここまでが前回のお話です。

 本日の箇所は、リベカが走って行き、母の家の者にこの出来事を告げる場面から始まります。彼女にはラバンという兄がいました。彼がこれ以降、家の代表者として振舞います。彼は泉の傍らにいるしもべのもとに走って行き、声をかけました(31節)。それにこたえて、しもべはラバンの家に来ました。らくだには餌が与えら、しもべと従者には足を洗う水と食事が運ばれました。丁重にもてなされたことが分かります。しかししもべは、要件を話すまで食事には手をつけないと宣言します。そこでラバンは、お話しくださいと答えます。こうしてしもべは、自分がここに来た経緯と目的を話し始めるのでした。彼がまず語ったのが、自らの主人アブラハムに与えられた主の祝福でした。それによってアブラハムは、多くの財産を得て裕福になりました。その祝福の中で、年老いていた妻サラがアブラハムとの間に男の子を産みました。アブラハムは、その子に自らの財産を譲ったのでした。そして37節からは、しもべがその子の嫁探しを命じられた経緯が明かされます。主人アブラハムとの誓いのこと、泉の傍らで主に祈ったこと、その祈りがかなう形でリベカが現れたことが説明されました。そのなかで、一点だけ着目しておきたいのが、40節で唐突に御使いに言及されていることです。この言葉とは裏腹に、リベカが見出されるこの出来事において神や御使いが現れて、直接物語に介入することはありません。しかしそのような自らの歩みについて、しもべは「主は、…わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。」(48節後半)と語ったのでした。しもべが自らの歩みについてこのように語ることができた根拠の一つに、40節の主人の言葉があったでありましょう。自らの歩みや、祈りが聞かれたことを振り返ったとき、そこには御使いの守りがあり、御使いを遣わしてくださった主のご配慮があったと、しもべは確信するのです。これは事実の説明以上に、しもべの信仰告白とも言ってよいでしょう。自らの旅路を振り返る中でこのような信仰告白を、しもべはすることができたのです。ところでラバンもまた、この出来事における主の導きを確信していたようです。ラバンはしもべを「主に祝福されたお方」と呼んでいます(31節)。その後しもべからラバンにそれまでの経緯が語られ、しもべの祈りがリベカによって主に聞かれたことを知りました。それらを聞いたラバンはより一層、この出来事の背後にある主の導きを確信したでありましょう。

 主はしもべの祈りを聞いてくださいました。神は民の祈りを聞いてくださいます。神は御自身の御心に沿って祈りを聞かれ、また民を導かれるのです。ですから主を信じる者は、祈りが聞かれつつ神の導きが明らかにされていくなかで、神の御心の前に立たされることになるのです。本日のお話において、しもべとラバンは、リベカをイサクの嫁と決められた神の御心の前に立たされています。この御心を前にして、しもべがラバンに語ったのが49節の言葉です。これは、決断の言葉です。特に決断を迫られているのはラバンです。それは大切な妹を、会ったこともないイサクの嫁としてしもべと共に行かせるか、あるいは行かせないかの決断です。これは結局のところ、しもべの歩みにおける神の導きを認め、それに従って行動するか否かの決断です。仮にラバンが神の導きを認めず、しもべの歩みを偶然の産物だと判断したならば、決断を迫られることはありません。大切な妹を手元に置いたまま「単なる偶然だから自分には関係ない」としもべに答えればよいのです。しかししもべの歩みが神の導きの中にあり、しもべの祈りが神に聞かれたと認めるならば、ラバンは決断しなければなりません。

 しもべの旅路に神の導きが示され祈りが聞かれたことは、いずれも神への感謝に値する大きな恵みです。わたしたちも自らのこれまでの歩みを振り返るときに、神の導きが示され祈りが聞かれた経験をお持ちでしょう。それらを「それは単なる偶然だ」と判断するならば、神への賛美は出てきませんし、神の御前に決断を迫られることもありません。しかしそれらを神の御業と認めるが故に、わたしたちは主に感謝し礼拝するのです。そして自らへの神の御業を認めるならば、それらによって示された神の御心に従うか否かの決断をわたしたちも迫られるのです。このわたしが主に導かれ、その中で祈りが聞かれた。この事実をとおして、主はこのわたしに対する御心を示されるのです。もちろん主が御心を示される中心は、聖書の御言葉です。しかしその御言葉は、わたしたちの歩みから離れたところにあるのではありません。御言葉に示された神は、この地上においてわたしたちと共に歩んでくださるお方です。わたしたちの祈りを聞いてくださるお方です。そのために、御独り子までもわたしたちに与えてくださったお方です。そこには、神の御計画があるのです。その御計画において、神はこのわたしを用いようとしてくださっています。この神の御心に目を向け、それに従う決断の中で、新たな一週の歩みを始めてまいりましょう。