2022年4月17日イースター記念礼拝説教「驚くべき復活」

 

聖書箇所:マルコによる福音書16章1~8節

驚くべき復活

 

 決して普通ではないこの状況のなかでイースターを迎えました。このような時だからこそ、主の復活の希望に目を向けてまいりましょう。主イエスキリストが十字架につけられたのは、金曜日でありました。そして土曜日の安息日を経て、日曜日の早朝の出来事が今日記されている場面です。主イエスの復活の出来事が最初に知らされたのは、三人の婦人たちでした。彼女たちは、主イエスの十字架を最後まで見届けた人々でした(15:40)。この行動から、主を愛する婦人たちの思いが垣間見えます。愛してやまない主イエスを、一刻も早く、せめてしっかりと葬りたい。そんな思いで、この婦人たちは安息日が明けた早朝から行動を始めたのです。墓に向かう途中彼女らは、誰が墓の石をどかしてくれるだろうかと互いに話していました。早朝ですから、墓の入り口の石を動かしてくれるような男性がそこにいる可能性はほぼありません。主のために香料を買った婦人たちは、一方で、それを使うことはできないだろうと予想していました。それでも、墓に向かったのでした。このときの彼女たちの信仰に、「復活」はまだありませんでした。復活のない信仰は、死の前に無力です。いくら主を愛そうとも、いくら深い信仰を示そうとも、復活の信仰がなければ空しいのです。

 このような婦人たちに、主の復活が知らされることとなりました。それは、墓の入り口の石が脇に転がしてあったことから始まります。その光景を見た婦人たちは、この時点で何か異常なことが起こっていることを悟ったでしょう。これはどうゆうことだと怪しみながら、墓の中を見たのです。するとそこに白い長い衣を来た若者が右手に座っているのが見え、ひどく驚いたのでした。この若者は、神の御使いでした。そして彼が主イエスの復活を婦人たちに伝えたのでした(6,7節)。ここで御使いが語ったことは、このとき初めて伝えられた新しい内容ではありません。かねて言われたことです。主イエス御自身が、十字架におかかりになる前にすでに明かされたことでした(14:27~28)。ところでこの発言の直後に、ペトロはこの主の言葉を否定し、自分だけはつまずきませんと言ったのでした。しかし結局ペトロは、主イエスを三度も知らないと言ったのです。ですから今日の箇所で御使いが「弟子たちとペトロに」と言い、あえてペトロを強調しているのもうなずけます。主イエスの言葉を面と向かって否定したペトロに、特にその言葉を思い起こさせようとしているのです。そしてガリラヤで改めて、ペトロと弟子たちを主の弟子として遣わそうとされるのです。これが御使いを通して知らされた神の御心でありました。

 この言葉を聞いた婦人たちの反応はどうだったでしょうか。主の復活の知らせを喜びながら、ただちに弟子たちに伝えに行ったのではありませんでした。震え上がって正気を失ってしまいました。恐ろしさのあまり、誰にも何も言わなかったのです。最終的には弟子たちとペトロに話したのでしょうが、主の復活を知らされた直後は完全に恐怖に怯えていたのでした。

 マルコ福音書の初版はこの8節で終わり、それ以降は後に加筆されたと考えられています。喜びの知らせを記したはずの福音書が、婦人たちの恐怖で終わっています。このことにも大切な意味があるのです。それは主イエスによってもたらされた喜びの知らせが、この世界にとって異質なものだということです。思えば復活だけでなく、主イエスという存在そのものがこの世界にとって異質でありました。それゆえに、マルコ1:27ですでに人々は驚きをもって主イエスを見ています。主イエスは故郷の人々にすら受け入れられませんでした(6章)。弟子たちまでもが主イエスを恐れています(4:41、10:32)。祭司長たちも主イエスを恐れ(11:18)、それゆえに主を十字架につけたのです。最後には、主を誰よりも愛していたはずの婦人たちですら、主の復活を聞いて恐れています。分からないこと、これまで触れたことのない新しいことを前にして、わたしたちは恐れます。それが自らにどのような結果をもたらすか、分からないからです。往々にしてそのような新しいものは、自らが今まで慣れ親しんできた考えや歩みに、変化をもたらします。主の復活もまた、それまでのわたしたちの常識、考え方、生き方に、大きな変革をもたらす出来事です。だからこそ、主イエスを前に皆が恐れるのです。しかし恐れる人々に、主イエスは繰り返し「恐れることはない」と語っておられます(5:6、6:50)。この主イエスの招きの言葉に信頼して、主の復活を受け入れる者でありたいのです。

 主の招きに従ってこの復活の出来事を受け入れて行動をおこすとき、わたしたちもまた主にお目にかかれるのです。弟子たちはガリラヤで主にお目にかかり、そこから主の働きをなすものとして遣わされていきました。わたしたちもまた、同じように復活の主にお目にかかり、主の弟子また神の子として、世に遣わされてまいりたいのです。まだ主の復活を信じられない求道者の方々もおられるでしょう。その気持ちは当然です。この世の常識から考えれば、復活は異常です。それを信じることは、狂気にも思えるでしょう。安心してください。主の弟子たちや、主に親しくお仕えした婦人たちですら、そう思っていたのです。だから恐れたのです。しかし是非とも、恐れず主イエスの復活というイースターの出来事を信じるべく、一歩を踏み出していただきたいのです。その先に、必ず復活の主が出会ってくださいます。

 

 わたしたちは、科学がすべてで、力がすべてで、死んだら終わりの世界に生きています。このような世界を生きるわたしたちが復活の主と出会うとき、この世界の常識をはるかに超えた復活の希望が与えられるのです。ここに、イースターの喜びがあるのです。