2022年4月10日受難週主日礼拝説教「自分を救わない救い主」

聖書箇所:マルコによる福音書15章21~32節

自分を救わない救い主

 

 本日は受難週主日礼拝です。主イエスの地上でのご受難、十字架を覚えて礼拝をささげています。主イエスは、わたしたちの罪の身代わりとして十字架におかかりになりました。しかしながら、約2000年前の十字架の出来事と、現代のわたし自身との関りは見えにくい面がございます。この十字架という出来事を、他人事ではなく私事として受けとめなおす一つの機会が、この受難週ではないでしょうか。そのような視点で、今日はマルコ福音書に記された十字架の出来事に共に目を向けてまいりましょう。

 十字架刑は、ローマ帝国の課す最もむごい死刑の方法でした。十字架につけられた人は、長い時間苦しみながら息を引き取ります。刑の執行の前に、受刑者は十字架の横木を刑の執行場所まで運ぶことになっていました。今日の箇所の最初で、兵士たちは主イエスの担いでいた十字架をシモンに担がせました。それは主イエスがこのときすでに大変疲弊していたからです。十字架は罪の赦しをなしとげるためになされた全能の神の御業です。けれどもそれは、神の無限の力による有り余る余力によってなされた業ではありません。全身全霊をかけてなされた御業でありました。これが兵士から見ますと、遅々として歩みの進まない主イエスがじれったく思えたのです。早く仕事を終わらせるために、通りがかりのキレネ人シモンに十字架を担がせました。

 こうして十字架刑の執行場所であるゴルゴダに着きました。されこうべ、すなわち「どくろ」という場所です。この世の悲惨が凝縮された場所です。そこで兵士たちは、没薬を混ぜたぶどう酒を主イエスに飲ませようとしました。これには痛みを和らげる効果がありました。しかし主はそれをお受けになりませんでした。十字架の苦しみを、和らげることなくすべてそのままお受けになるためです。こうして主イエスは十字架につけられました。そのまえで、兵士たちはくじを引いて主イエスの服を分けあっていました。賭け事をして遊んでいたのです。人の命が消えようとしているそのまえで、その苦しみをネタにして他の人々が娯楽に興じている。それが聖書の描き出す世の悲惨の姿です。いままさに命を落とす人々を自らの利益のネタにしながら、他の人々が楽しんでいる。いまこの現代でも起こっていることではないでしょうか。ユダヤ人の王として、そして全世界の真の王として、主イエスはこの悲惨を身に受けられました。

 十字架につけられた主イエスの前を通りがかった人々は、主イエスをののしりました(29,30節)。同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって主を侮辱しました(31,32節)。これらの言葉の前提にあるのは、自分を救ってこそ他人が救えるという世の常識です。十字架上で苦しんでおられる主イエスのお姿は、その常識とは相いれないものでした。しかし主イエスは自らを救えなかったのではなく、救わなかったのです。それは他人を救うために、自らのすべてをささげるためです。その姿を人々は主を受け入れられなかったのです。しまいには、一緒に十字架につけられた者たちまでもが、主イエスをののしったのでした。

 ここで、主イエスと一緒に十字架につけられた者たちがいたことの意味について考えてみましょう。27節によれば彼らは強盗でした。他人のものを奪ってまで、自らの命を救おうとした人々です。その結果、自らの命を救うことなどできず、十字架の悲惨な死に至ってしまいました。彼らが示すのは、自分の命を救うことに一生懸命なすべての人間の姿ではないでしょうか。もし自分の命は自分が救わなければならない世の常識のなかで生きるならば、わたしたちもまたこの強盗たちの十字架と同じ悲惨へと至るのです。主イエスは、この強盗たちと同じ十字架につけられています。けれどもその経緯は全く異なります。主イエスは他者の救いのために自分の命を救わず、命を捨てて十字架の苦しみを受けられました。結果、主イエスだけが再び命を得て復活されました。命を獲得されたのは、自らの命を救わなかった主イエスの方でした。あなたは強盗と主イエスの、どちらの十字架への道に向かっているのか。マルコ福音書はわたしたちに問いかけています。マルコ8:34,35で、まさにこのことを主はわたしたちに問うておられます。

 

 今日のお話のなかで唯一シモンだけが、主イエスの十字架へと至る道を歩みました。彼は自分の行きたい道を遮られ、十字架を背負って主に従ったのです。このシモンは、アレクサンドロとルフォスとの父と紹介されています。この二人は、初代教会の有力な信者であったと言われています。この出来事の後、シモンは家族共々信仰者となりました。このシモンの生き方こそ、キリストに従う者の生き方でありましょう。自らの十字架を背負いキリストにお従いするキリスト者の歩みは、ある面で強いられて歩む道です。それは自分の命を捨てる生き方だからであり、自分がこうしたいと願う生き方を手放す生き方だからです。他者の救いのために、自らの命を救わない主イエスにお従いするのがキリスト者です。自らの望む生き方を否定して、他人を救い、自分ではない誰かが福音の恵みを受けて救われるために全身全霊を傾けるのです。この生き方は、一見すると大変損な生き方に見えるでしょう。それでもキリスト者がそのように生きるのは、このわたしの命をすでに主イエスが、自らの命をなげうって救ってくださったからです。もはやわたしたちは、自らの命のために一生懸命になる必要はないのです。主イエスキリストが、あの十字架の苦しみにおいてわたしたちの命をお救いくださいました。その恵みをいただいたわたしたちだからこそ、他人を救うために全身全霊を傾けることができるのです。そしてその生き方の先に、復活の希望に満ちた命が、そしてこれ以上ない喜びの人生が、与えられるのです。