2022年3月13日礼拝説教「示されない罪状」

聖書箇所:使徒言行録25章13~27節

示されない罪状

 

 先週は、フェストゥスの裁判の様子から学びました。その結果決まったパウロのローマへ護送までの間のお話が、今日の箇所から始まります。その中心は、次の26章に入ってからのパウロの弁明です。今回はそれに向けてのつなぎのお話で、パウロ自身は一切登場しません。キリスト教でない人々のやりとりです。それゆえに、パウロをはじめとするキリスト者が外部からどう見られていたかを、今日のところから知ることができます。

 さて、今日のお話は総督フェストゥスのもとにアグリッパ王とベルニケが来たことから始まります。アグリッパ王は、ローマ帝国公認のもとパレスチナの一部地域を王として治めていた人で、ベルニケは彼の妹でした。二人は着任間もない総督フェストゥスに挨拶をしにきたのでしょう。その際、総督フェストゥスはアグリッパ王にパウロの扱いを相談しました。それほどに、パウロの扱いに困っていたことが伺えます。彼がパウロの扱いに困っている理由はいくつかあります。理由の一つは、彼の予想していたような罪状を告発者たちが何一つ指摘できなかったことです。いっそパウロが犯罪者であってくれたなら、扱いに困ることはありません。しかしパウロが善良な市民であったからこそ、彼は扱いに困ったのです。もう一つの理由は、この裁判で争われている問題が、彼らの宗教の問題だという点です。特に争点の中心になったのは、死んでしまったイエスが生きているかどうかです。主イエスの復活を信じるか否かが、キリスト教とそれ以外の宗教を分ける境界線です。聖書は信じるがキリストの復活は信じない人々もおりますが、そのような立場はもはやキリスト教とは言えません。他でもない聖書が「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい」(一コリント15:17)と語っているからです。まさにキリストの復活こそ、キリスト教信仰の中心です。パウロの裁判においても、結局はこの点が議論の中心でした。ユダヤ教や聖書について十分な知識を持ち合わせていない総督フェストゥスは、その扱いに困ったのでしょう。その点、アグリッパ王はローマ帝国にもユダヤ教にもつながりがあり、相談相手としては適任でした。フェストゥスがアグリッパ王に相談しますと、アグリッパ王も話を聞くことのことでした。その翌日、フェストゥスは早速その場を設けました。

 この会見の場に、アグリッパ王とベルニケは盛装して到着しました。権力者であることを誇示するような服装です。そこには千人隊長や町のおもだった人々もおりました。ですからこの場は、正式なものではないにしても、立場のある人々が容疑者の言い分を聞くような、裁判の延長線上にある会見だったと言えます。裁判は、支配の実現の場です。この支配の場において、総督フェストゥスが事の次第を説明し始めます(24~27節)。この発言から、彼がパウロの扱いに困っていた根本的な理由が、皇帝に書き送ることが何もないという点であったことがわかります。彼が何も事態を理解していなかったのではありません。しかしパウロが皇帝に上訴するにあたり、皇帝に対して論点がどこにあるかを書くことが困難だったのです。権力者が集まる場を支配しているはずの総督が、キリスト者の扱いにこれほど苦悩している姿は印象的です。それはパウロをはじめとするキリスト教という存在が、それを信じない人々にとっては理解しにくく扱いにくい存在であることをも示しています。それ故に、キリスト教への迫害が繰り返されてきました。日本においても、迫害までは行かなくとも、キリスト教に対する批判的な発言は案外身近にもなされています。しかしキリスト教が迫害される理由は、それだけではありません。キリスト教の教えに、人を救う力があるからです。キリストの復活は理解できない。それでも人を引き付ける力を持っている。それが、外部の人々から見たキリスト者の存在なのです。

 現代は、とにかく分かりやすさが重視される傾向があります。伝道する際にも、理解されやすく分かりやすい言葉が求められます。けれども聖書の教えの理解されにくさ、分かりにくさも、忘れてはならないのです。それは聖書が難解だからではなく、キリスト教の中心にキリストの復活があるからです。同時に、ここにこそ人を救う力があるのです。もし人々に理解してもらいたいがために、キリストの復活をあいまいにするならばどうでしょうか。確かに世の人々から見れば扱いやすく理解しやすい宗教になるでしょう。聖書は信じるがキリストの復活は信じない人々がいるのは、そのほうが世の人々にとって理解されやすいからです。しかしそのような信仰には、何の救いの力もないのです。理解してもらうように努力し工夫することは大切です。しかしそれが聖書の福音である復活の希望を曲げるものであってはならないのです。

 

 ところで今日の箇所は、ルカ21:12~15にある主イエスの言葉の実現として読まれてきた御言葉です。御言葉が示すキリストの復活の理解されにくさのゆえにキリスト者は王や総督のまえに引き出され、人々からの反発を受けるのです。しかし主の復活を証しする御言葉、神の知恵は、どんな反対者でも反抗も反論もできないほどの力があるのです。現にそれによって人が救われるからです。だからこそ、キリスト者は、主の復活に希望を置き続けるのです。どれほど世の力が強かろうと、どれほど科学が発展しようとも、それらは死から人を救う力はありません。まことに人を生かすキリストの復活の希望、それを示す神の御言葉にこそ、人を救う力があります。この事実に対抗できる者はいないのです。この確固たる希望のうえに、キリスト者であるわたしたちは立たされているのです。だからこそ我々に向けられる人々の無理解と迫害を、いたずらに恐れる必要はないのです。