2022年2月27日礼拝説教「アブラハム、墓を持つ」

聖書箇所:創世記23章1~20節

アブラハム、墓を持つ

 

 本日は、死んだ妻サラのためにアブラハムがお墓を買う物語です。現代において墓を持つことは、どちらかというと避けられがちではないかと思います。このような現代人の傾向とは反対に、アブラハムは妻サラの墓を持つことを熱望しました。サラが死んだのはカナン地方のキルヤト・アルバで、すなわちヘブロンと呼ばれる場所です。その土地に住んでいたのは、ヘトの人々でした。彼らは商業の民であったと言われています。ヘトの人々とは、原点ヘブライ語では「ヘトの子供たち」という言葉です。「子供たち」という言葉から、ヘトの人々が世代を超えてその土地に安住していたことを伺うことができます。それに対して、寄留者であるアブラハムには、自らが所有する土地を持っていませんでした。そこで死後に安住できる墓を、自らの所有として確保したい。だからあなたがたの所有する墓地を譲っていただけないかと、4節でヘトの人々に申し出るのです。それに対するヘトの人々の5節と6節の回答は特別好意的なものではなく、この当時の典型的な商売交渉のやり取りであったと言われています。

 ヘトの人々は、アブラハムに対して自らの墓地を提供することを申し出ます。その本音にあるのは、寄留者アブラハムが土地を所有することの拒否です。自分たちの場所は提供してあげるから、あなたは寄留者のままでいてはどうか、というものです。それに対してアブラハムは、あくまで土地を買い取ることにこだわります。より具体的に、エフロンが所有する畑の端にあるマクペラの洞穴を購入したいと指定しました(9節)。11節にエフロンの反応が記されています。畑も洞穴も差し上げます、と申し出ています。これも言葉通りに受け取ることはできません。これもあくまでこのあとの金額提示のための、商売上のやり取りであったと考えられます。またアブラハムとしても、善意で譲ってもらった土地では、後になって所有の正当性に疑いが生じる可能性があります。あくまで代金を払って買い取りたいと願うのです。それでエフロンは14,15節において、銀四百シェケルという土地の代金を提示します。これがどれぐらいの価値かはわかりません。「それがあなたとわたしの間で、どれほどのことでしょう」とのエフロンの言葉は、あたかも格安であるかのような言い方です。けれどもヘトの人々が商売の民であることを考えますと、格安であるかのように言いながら、実際には高値を提示したのではないかと、わたしは想像します。アブラハムは言い値の代金を支払うことに同意しました。彼にとっては、たとえ相場より高値であっても、土地を所有するための必要な出費であったのです。

 こうして売買契約が成立し、アブラハムは自らが所有する墓を持つことができました。これが単なる個人間でのやり取りではなく、皆が合意しての公の取引であったことが強調されています。「町の門の広場に集まってきたすべてのヘトの人々が聞いているところで」と記されているからです。町の門の広場というのは、町の有力者たちが集まって物事を決める場所です(例えばルツ記4章)。当事者が合意し納得し、それを皆が証明できる確かな形で売買はなされました。こうしてマクペラにあるエフロンの畑は、土地と洞穴と境界の木を含めてアブラハムが所有することとなりました。その後、早速アブラハムは、その洞穴にサラを葬ります。25章ではアブラハム自身もそこに葬られることになります。寄留者であったアブラハムは、死後にではありますが安住できる土地をカナンの地に得ることができたのです。

 これがカナンの地であることが重要です。神がアブラハムに「この土地をあなたの子孫に与える」と約束してくださった場所だからです。この約束の地に、今日の箇所でアブラハムは初めて土地を所有することができました。神が与えると約束してくださった土地全体からみれば、それは猫の額ほどのわずかな土地です。しかしその土地の所有に、アブラハムはあくまでこだわったのです。なぜならその土地を所有することが、神の約束の実現の第一歩だったからです。アブラハムは、一生かかってようやくこの土地を所有することができたのでした。のちに彼の子孫たちが、神の約束の実現へと励んでいくことになります。そしてキリストが来られてからは、この約束の土地が、キリストのご支配される神の国という形で、世界中に広がっていくことになります。その最初の一歩が、アブラハムの買い取ったこの墓なのです。

 

 寄留者として生きながら一生かかって神の約束の実現のために小さな土地を所有する。このアブラハムの生き方は、我々の生き方でもあります。神の民である我々もまた、この世界に安住することのできない寄留者です。戦争の悲惨を前にして、そのことを思い知らされます。この世は、力や能力を持った人々がそれを持たない人々を支配し侵略しています。それが当然の世界なかで、わたしたちはキリストを信じ、聖書の御言葉に生きようとしています。それ故にこの世界に居心地の悪さを感じずにはいられません。ゆえに我々はこの世界の寄留者です。そのようなわたしたちが一生かかってできることは、この世界にほんのわずか、キリストのご支配される神の国を広げることだけです。しかしわたしたちが一生かかってこの世界にわずかに広げる神の国が、強者が弱者を支配するこの世界にくさびを打ち込むことになるのです。わたしたち自身の存在は大変小さいかもしれません。しかしわたしたちが神の民として、今この世界に置かれていることは決して小さなことではないのです。一生かかってできることは小さく見えても、わたしたちが確保したその小さな土地が、キリストのご支配される神の国を地上に来たらせ、まことの平和をもたらす第一歩になっていくのです。世界が暴力へと大きく傾くなかで、そのことを我々は決して忘れないようにしましょう。