2022年2月6日礼拝説教「守られながらの移動」

 

 

聖書箇所:使徒言行録23章23~35節

守られながらの移動

 

 ここに記されているのは、ひとりの容疑者が裁判官の元へと送られる出来事に過ぎません。けれどもそれが神のご計画が実現していく過程であるという点に、この個所の意味があります。ここで実現しつつある神のご計画とは、パウロがローマで証しすること(23:11)です。この神のご計画に心を留めながら、この個所に触れてまいりましょう。

 パウロが護送されるきっかけは、暗殺の陰謀でした。この陰謀は実行に移される前に、千人隊長の知るところとなりました。そこで千人隊長は百人隊長二人を呼び、カイサリアへ出発できるよう準備をするように命じました。歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名という規模は、エルサレムに常駐する軍のおよそ半分にあたり、大変手厚い体制です。おそらくパウロ以外にも何名か護送すべき人々がいたのでしょう。またこの当時の治安の悪さを反映しているのかもしれません。自らの主張のためには暗殺をも辞さない人々が、この頃には多くいたようです。そのような人々に不法に襲われることのないよう、厳重な警備を命じたわけです。さらに千人隊長は、パウロのことについての総督宛の手紙を持たせます。その内容から千人隊長の人物像についてある程度知ることができます。まず彼の名前がクラウディウス・リシアであったということです。クラウディウスという名は、彼が市民権を得た際に得たものです。それが一つ前の皇帝クラウディウスの時代であったことが、この名前から分かります。彼が市民権を得たのは、そう昔の話ではないようです。それにもかかわらず、実力主義のローマ軍で千人隊長という重責を担っていたわけですから、能力ある人であったことがうかがえます。この人が27節以降で事の顛末を記しています。事実と少々異なり、あたかも自らが先頭に立ってローマ市民を保護して職務を全うしたかのような書きぶりです。自分の手柄をアピールしようとしたのでしょう。そのあたりの処世術のうまさに、この人が千人隊長まで出世した一つの理由があるように思います。千人隊長がこのアピールをするためには、無事にパウロをカイサリアまで送らなければなりません。こういったことも、多数の兵士を護送に用いた理由かもしれません。ともかくそのようなアピールの中にも、パウロが告発されている理由がユダヤ人の律法に関するものであり、死刑や投獄に相当する理由などないことが明確にされています。それでもパウロを暗殺する陰謀があったため、直ちに総督のところに護送することにしたのです。市民権所有者の裁判権は総督にあるためです。

 このような千人隊長の処置により、パウロの護送が実行されます(31節以下)。エルサレムからアンティパトリスまで約60キロの道のりを夜の内に踏破したようですが、歩兵が移動するには遠すぎます。また、治安の良くないエルサレムを、多数の兵士が長時間留守にしたとは考えにくいのです。おそらく歩兵と補助兵は町はずれの安全なところまで同行し、その後は騎兵に護送を任せたのでしょう。ともかく兵士たちによってパウロは無事にカイサリアに護送され、千人隊長の手紙が総督に渡されました。この手紙を受け取ったのが、総督フェリクスという人でした。この人も千人隊長と同様に、もともと市民権を持たない奴隷でした。そこから異例の昇進で総督にまでなった人です。しかもこの地方の総督は、ユダヤ人たちに配慮しつつローマ帝国としての統治もしなければならない難しさがあります。皇帝からのよほどの信頼がなければ任命されません。そういった面で、フェリクスもまた能力があるといいますか、身の振り方がうまい人であったようです。そのフェリクスのもとに、パウロが手紙と共に護送されました。パウロの出身を訪ね、キリキア州の出であることが分かります。ここで総督フェリクスは、キリキア州の総督に裁判を任せることもできました。しかしそれでは告発しているユダヤ人たちもキリキア州まで出向かせることになり、反発を買うことになります。ですからフェリクスは、自分で裁判をすることにして告発者の到着を待つことを宣言し、パウロを官邸に留置しておくよう命じました。なお「留置」と訳されている言葉は「守る」という意味が強い言葉です。ですからパウロは、命の危険がないように保護されたのです。

 

 今日のお話においてパウロは、千人隊長の実績アピールや、総督フェリクスによる自らの都合を考慮した処置により、結果的に保護されることになりました。パウロが守られたということは、彼がローマで証しするとの神のご計画が守られたということでもあります。箴言19:21に次の言葉は「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」とあります。単純に人の計らいは全く退けられて、主の御旨が実現するというわけではないのです。様々な人々の計らいが複雑に絡み合う中で、結果的に主の御旨は守られ実現していくのです。その様子を、今日のお話から見て取ることができるのです。思えば主イエスの十字架と復活も、様々な人々の計らいが絡み合う中で結果的に起こったことでした。それが神の御旨の実現の仕方なのです。わたしたちを含め、人は様々な思い計らいをします。そのようななかにおいてこそ、神の御計画は確かに実現するのです。わたしたちは今年も様々なことを計画しています。皆さんの中にも、様々な計らいがおありかと思います。それらは人の計らいですから、うまくいくこともあれば、思い通りにならないこともあるでしょう。しかしそれらが絡み合い、用いられながら、結果的に主の御計画は実現していくのです。だからこそ、神のご計画の実現を求めて計らい、行動する者でありたいのです。成功しても喜び過ぎず、失敗しても落ち込みすぎず、それらを通して示される神のご計画に希望を持って行動し続けようではありませんか。