2022年1月30日礼拝説教「キリストの体なる教会を建てる」

 

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙1章15~23節

キリストの体なる教会を建てる

 

 本日は午後から定期会員総会が予定されていますから、年間標語聖句の御言葉に聞きましょう。エフェソの信徒への手紙を書いたパウロは、使徒言行録よればエフェソに三年ほど滞在したようです。しかしこの手紙のあて先は、顔見知りではない人々であったと言われています。三年間もエフェソに滞在したパウロと顔見知りではない人々として考えられるのは、エフェソの周辺に住んでいてパウロと会う機会がなかった人々、そしてパウロが去った後にキリスト者となった人々です。彼らは聖なる者たちと呼ばれ、キリストを信じている人々です。しかし知識の面、すなわち神がどのようなお方で、キリストがどのようなお方で、救いとはどのようなことか、信仰者としてどう生きるべきか・・といった教理の理解に不安がありました。教理知識が不足しますと、信仰が個人化し、わたしが信じるということだけに集中しやすいのです。その結果、交わりや教会の軽視につながりやすい傾向があります。この手紙全体の内容をみたとき、おそらくこの点の問題意識が手紙を書いた側にあったと想像できます。そう考えますと、15、16節において、祈りの度にあなたがたのことを思い起こし絶えず感謝していると記すパウロの思いが見えてまいります。あなたがたは覚えられている、大切に思われている。決してあなたの信仰は、あなた個人のなかで完結するものではない。そういった思いが、この祈りに込められているのです。

 続く17節と18節前半には、この祈りの内容の中心が記されてまいります。ここで、知恵と啓示との霊が与えられることと、心の目が開かれることは、ほぼ同じ願いと言えます。ルカ24章には、復活の主イエスがエマオで弟子たちに現れる出来事が記されています。最初弟子たちは、自分たちと話しているのが主イエスであることが分かりませんでした。そんな彼らが最後には目が開かれ、そのときはじめて主イエスであると悟ることができたのです。神から知恵と啓示の霊が与えられ、神が心の目を開いてくださることによって、人ははじめて神を深く知ることができるのです。それは単に知識を蓄えることではありません。「腑に落ちる」という表現が近いように思います。そういったことが18節後半から19節にかけては、「悟る」という言葉で表現されています。心の目が開かれ、神を深く知ることによって悟るべきことは三つです。一つ目は、神の招きによってどのような希望が与えられているか。二つ目は、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか。そして三つめは、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか。

 信仰者としてまず悟るべきことは、人間の罪や神に従う義務ではなく、神から与えられている希望、わたしたちに与えられる栄光、そしてわたしたちに働く神の力の大きさです。これらが腑に落ちさえすれば、罪を悔いる思いや神に従う行動は自ずと与えられていくのです。だからこそ、信仰に入って間もないような人々がまず悟らなければならないのがこの点なのです。神にある希望、神から与えられる栄光、そして神の力。そして特に最後の「神の力」について、それがどのように信仰者に働くのかが20節からより詳しく明かされてまいります。信仰者に働く神の力は、何よりも神がキリストに働かされた力です。この力によって神はキリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせられました。それゆえにこのお方はすべてのものの支配者であられます。ところで、誰に従い、何を自らの頭とするかは、わたしたちにとって自らの命運を決める大切な選択です。有名有能な誰かを頭とし、その人の言うことに従って生きるのか、自らの能力や実力を頭とし、それを頼って生きるのか。それともキリストを頭とし、このお方を頼って生きるのか。キリストが全世界の真の支配者であられることを悟るならば、誰もこの選択を迷うことはないのです。問題は、キリストが一見すると全世界の支配者には見えない点にあります。歴史的に見れば、十字架によって処刑された死刑囚に過ぎないからです。この方が救い主であることはもう人間の理解を超えたことですから、神に悟らせていただくしかないのです。しかしもし悟らせていただいたならば、この世で起こり得る様々な試練にも耐え抜いてキリストに従っていくことができるのです。

 ところで22節の最後を見ると、このキリストが教会の頭として与えられていると記されています。一方教会は、キリストの体と言われています。我々がキリストを頭とするためには、教会のメンバーになってキリストの体の一部となることが必要です。ですから聖書をとおしてキリストを信じるならば、信仰の個人化や教会の軽視は起こりえないのです。では、頭と体はどのような関係なのでしょうか。それが、5章21節以下の夫婦関係によって説明されています。そこでは夫と妻の関係をとおして頭は体を愛し(5:28)、体は頭に仕える(5:22,23)ことが教えられています。このわたしが教会に結ばれてキリストの体とされるということは、頭であるキリストの愛を受け取るということです。同時に教会に結ばれたわたしは、頭であるキリストにお従いするのです。それはキリストの望みを自らの望みとし、キリストの喜びを自らの喜びとする生き方です。こうしてすべてがキリストに満たされていくのです。それが教会という場所なのです。

 

 わたしたちが教会に結ばれるとき、そこには共にキリストと一つとされた兄弟姉妹がいます。彼らをとおしてキリストの愛を受け取り、彼らに仕えることをとおしてわたしたちはキリストに仕えるのです。そのようなキリストの満ちる教会によって、ここに救い主キリストがおられると示されていくのです。そのような教会を、この年、共に建てあげていこうではありませんか。